2005年07月 - ポエツ | poets

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a streetcar named ”design”

■欲望と言う名のデザイン
私は何かをデザインしたいと言う気持ちは、支配欲・征服欲と同源じゃないかと考えています。以前の記事でも書いたのですが、織田信長や毛沢東も、「世界」を設計(デザイン)してやろうとしていたのだと言えます。

ちょっと論旨はズレますが、多くの人は観光などの際に写真を撮るのが好きです。風景と言うのは眺めて、記憶に留めるしかないのですが、「写真」と言う形で物質化することによって「所有」を可能にしています。これも世界を所有したい欲望に適っているのでしょう。
私が(実は誰しもですが)写真を撮るときは、被写体を自分が見えているように、見たいように写すわけです(そうならないのは技術の不足です)。なので決して「真ヲ写ス」ではありません。

■デザインするは我にあり
私は未見なのですが『マイ・フェア・レディ』と言う有名な映画がありますね。あれも一人の女性をデザインしようとする男の物語ですか。(←ああ、「デザイン」を「プロデュース」に置き換えると「つんく」になるんだ…)
『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショウの戯曲『ピグマリオン』ですが、私はピグマリオンの神話も大好きです。ギリシャ神話でしたっけ? 原典に近いものを読んでないんで異同はあると思いますが、多少の私の曲解込みでだいたい以下のような話です。

ピグマリオンと言う男は、真に美しい女性を求めているのですが、現実にいる女性と言うものは決して「理想的」な存在ではありません。失望したピグマリオンは、ならば自らの手で理想の女性を造り出そうと、石の彫像を製作します。まさにデザインするは我にあり、です。
そうして彼は理想の女性像を造り出し、現実世界にはここまで真の美しさを持つ女はいないだろうと確信します。それを見た神が(彼の造った彫像の完成度を賞讃したからでしょうか)、その理想の石像を、肉体を持った女性に変身させます。で、ピグマリオンは夢に描いた理想の女性と添い遂げるんじゃなかったかしら。まあ、終いはどうでもいいです。

男女の位置は置換可能ですので、女性蔑視的な悪意はないと思います(映画『マイ・フェア・レディ』にはありそうな気がしますが)。

■支配したい対象
デザインで支配したいものというのは、2つの方向があります。
ひとつはまず、それが自分の思い通りのカタチをしていないから、意に沿うように作り変えることです。
もうひとつは、自分がデザインしたものを他者が見た時(使った時)に、「美しい」と思わせたいとか、びっくりさせたいとか、相手の感覚・印象を意のままにコントロールしようとすることです。「視線の誘導」などは後者に属するものでしょう。

このふたつは内向きと外向きとベクトルは違えど、基点は同一です。
デザインする者にとって、「自分はすごく美しいと思うのに、百人に感想を尋ねたら皆、美しくないと言われた」場合はどうでしょう? 「自己満足」とは言いますが、多くの場合「他者の評価(他者も満足させた)」もそこに含まれるものです。あるいは自分の価値観が、共通認識として他者に通用するか、という意味もあります。
あるいは、「こういう大きさ、色形にすれば、確実に目立つし、誰にでも使いやすい」形状があったとして、それが自分としてどうにも美しいと感じられない場合、やっぱり自分の感性に折り合うかたちに、何とかアレンジしようとするもんです。
そう言った意味で、この内・外のベクトルは微妙な綱引きの関係にあるのではないでしょうか。

■Designin' the world !!
英単語を使っていると、私なんか解ったような気になってしまってイクナイな、と感じますが、「デザイン」と「ルール」は密接な関係にあります。
ルールと言うのは「その世界を支配している法則や規律」のことです。つまりその世界、局面でのみ通じることとも言えます。

福田和也氏の著書などで読んだのですが、日本人は「ルールに適応すること、ルールの範囲内で何ができるかを考えること」に長けている反面、「ルールそのものを構築する、作り変えること」は不得意と言われています。私自身の感覚で言うと、条件がある時点でまずその枠内で考えてみますから、思考の範囲が内側に留まり気味になります。
逆にアングロサクソンはじめ、世界にはルールの構築を得意とする民族もいます。国際スポーツでも、経済でも日本はたびたびこれに悩まされているから、よく解ると思います。それでも勝手に変えられたルールに、なんとか適応してしまおうとする民族性は嫌いではありません。

ルールを持ち込んだものが強いのは当たり前です。そのルールの運用も熟知してますし、それ以上にルールを必要に応じて改変するイニシアチブも握ってますから。市場も似たことが言えると思います。
数年前、私がはじめてMacを購入した頃、「クロックアップ戦争」なるものが勃発しておりました。クロック周波数はコンピュータの処理速度を表わす数値のひとつです。当時PCが「ギガヘルツ」を超えつつあるなか、Macは500メガヘルツあたりをうろうろしていました(ちなみ私が昨年まで使っていたマシンは350MHz)。

私は機械としてのコンピュータの知識は皆無です、が確実に断言できることがあります。
1ギガヘルツのマシンは、500メガヘルツの2倍早いか? そんなことはありません。では1.5倍? いいえ。ヘタすると1.25倍も差が出ないかもしれません。マシンの性能はクロック数値だけで決まるものではないからです。
それは専門家じゃない私でも、パソコン雑誌のベンチマークテストを見りゃ何となくわかります。
にも関わらず当時の市場はクロックアップ・マンセー! だったのです。それがそのとき市場を支配していた「ルール」だったからです(自然発生したものではないでしょう)。その後のデジタルカメラ市場の「画素数戦争」にも同様のことが言えます。

福田和也氏いわく、PCのOSの設計と言うのは、言わばひとつの世界観をまるごと構築することだと。だから日本人にはあまり向いていないのだけど、一定の世界の中でどう遊ぶかには長けているので、おもしろいソフトを開発したりするんだとか。日本民族の指向性は、よりミクロコスモスなものへと向くのでしょう。
たしかに「インターネット」なんかは日本人に構築できなさそうですが、ネット上のコンテンツを充実させることは得意そうです。
それでも日本人でOSを開発している人はいますし、独特の「世界観」を持っている民族ですから、その世界観が反映されたOSがあったらどんなものか興味深いです。

[related]*論評
[参照]欲望という名の電車 Streetcar Named Desire
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東京は僕の庭?

外国で生活を始めて半年以上が過ぎたのですが、いろいろ気づくことがあります。まだ、それほど切に国に帰りたいと思ったことはなかったのだけど、最近、これが郷愁かなと思う気持ちに気づきました。
まあ帰国したら、誰と会いたいとか、何が食べたいとか、何を買いたいだの、そういうのは大小あるけど、なにより私の中で、最も強いのは風景が見たいと思うことです。

台北にだって、いろいろな街並みがあります。でもどんな風景を見ても、日本の風景のような優しさがないような気がします。「優しさ」と言うと語弊がありますね。『風情』とでも言えばいいのか、たとえばそれは『風鈴の似合いそうな景色』でしょうか。
目の前が真っ白になりそうな、夏の日差しを浴びながら切に思うのは、この日差しの中のあの風景が見たいと言うことです。

東京の都心は、都会だけど神社やら自然やらが点在して、和みがあったのだなあと思います。夏の日差しは台北も、東京もさほど変わらないけど、あの都会の中にある小さな神社の木陰のような涼やかさはありません。
この2、3年は、休日のたび、街歩きしながら写真を撮っていたせいか、いろんな場所が思い浮かびます。

まずは皇居などお濠のあるところですね。赤坂見附から霞が関、銀座方面へ歩くのが好きでした。
虎ノ門、神谷町あたりの清潔感・先進性のあるオフィス街もお気に入りです。土日に行くと人通りがなくてまるで違う街並みで、平日は混んでいるカフェも空いていたりして、くつろぎの穴場です。
新橋ー浜松町も裏通りに入ると、レトロチックな建物が残っていて、再開発をしているエリアとの対称性がいかにも東京的です。このあたりには小さな中古カメラ店が点在していて、買いもしないのについ立ち寄ってしまいます。
築地・八丁堀に来るとまた雰囲気が変わります。この界隈で撮った写真が一番多い気がします。この辺に来た時には必ず隅田川岸まで歩きます。私の実家は多摩川の近くのせいか、子供の頃から大きな川がある所が好きです。

九段下から神保町、お茶の水方面も、特に夏の景色は捨て難いです。
お茶の水から向こうになると、なんとなく『江戸情緒』なんて表現がしっくりくる界隈です。上野の裏側(私の感覚的にはウラ側にあたる)から谷中~千駄木方面は、通り過ぎるだけの散歩者には気安くない雰囲気があって、そのへんが「下町」なんだろうなあ、と。

それから小田急線の沿線はどこも大好きです。何年か暮らしていたアパートから近かった経堂、千歳船橋はカメラを提げて、自転車でぶらぶらしたものです。

代官山やら自由ケ丘のせいか高級感のある東急東横線沿線も、自然が多く残る街並みです。代官山は降りたことないんですが、多摩川園から鵜ノ木のかけての、ここも川沿いが私の散策コースでした。

最後に地元、府中の大国魂神社へ続くけやき並木の、夏の木漏れ日も懐かしく思う風景です。
※「東京」と言えば中央沿線!(中野やら阿佐谷あたり)だ、と主張する人も多いかも知れませんが、個人的に縁遠かったので良く知らないのです。


こうして列挙すると、東京も悪くないんだなあ、と思ってしまいます。嫌いとは言いませんが、もともと東京に違和感や反感を感じて、しばらく外国と、東京以外の都市に暮らしたいと思ったのが、台北に来るひとつの動機でした。
学生の頃は、休みには実家に帰郷する他県の出身者をうらやましく思ったものです。

東京=日本ではありません。もしかしたら(東京>日本)東京が日本からはみ出している部分もあるように思います。東京には世界中、日本中から色んなものが集められていて、これが「東京人」のもの、と言える部分がとても少なく、「郷土意識」が希薄です。だから私は「東京人」であることはアイデンティティとして、あまりに弱い気がして、東京が好きになれませんでした。
東京は「東京」という、ごく特殊な区域で、「日本」そのものとも違うと考えています。

去年は京都、箱根と、代表的な都市(どちらも東京の学校から修学旅行で行く都市)を旅して、やっぱり東京は情緒に欠けるなあと感じたのですが、外国に来て、「日本」という大枠で相対化してみると、東京はちゃんと「日本」なんだなあ、と思いました。

台北に暮らしたいと思ったのも、旅行で何度か訪れた、この台北の街並みに、風景に埋もれたいと感じたからですが、いま東京に帰りたいなあと思うのも、同じくあの景色の中にいたいなあ、と感じるからです。
郷愁とは、もしかしたら自分をその風景の一部にしたいと思う気持ちなのかもしれません。


7/23 追記
福田和也氏が、日本人の感性は清少納言の「春はあけぼの」の頃から、そう大きくは変わっていないのだ、と主張されていますが、とてもよくわかります。
季節季節の持つ空気の匂い。朝夕で移り行く空雲の色。雨上がりの薫り。日差しや風、葉擦れの音や虫の声への感受性。日本人の民族性と言うよりも、日本の風土自然の豊かさがそこに住むものに、それを感じさせてしまうように思います。

春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
夏は、夜。月の頃は、さらなり。闇もなほ。蛍の多く飛び違ひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。
冬は、つとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜のいと白きも。また、さらでもいと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、温く緩びもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。


「東京は僕の庭」
boku_no_niwa_couv.jpg

フレデリック・ボワレのサイト(注:ポップアップ広告、コンテンツの一部にエロティックな表現が含まれます)

[related]*下高井戸

piano 1.0

■05.7.18 piano 1.0
自家用スキン「piano」について、スキン自体は随時更改してしまうので、現在の状態のキャプチャから説明します。
全体はこんなかんじです。



■1クリック→開 2クリック→閉 が基本
custom_pn02.jpg

■ドロップダウン
まず上部プルダウンメニューです。
もともと「onmouseover/outで切り替えるプルダウン」のサンプルスクリプトを参考にしています。しかしこのイベントハンドラでは、マウスが乗るだけで開閉してうるさいので、そのまま安直に「onmousedown」に変えました。

閉じるためにはダブルクリックしなければならないという、ちょっと(かなり)不便なものです。開ー閉が同じ動作でないのは不自然かもしれません…
つーか不良品だよ(*´∀`)

私でもいじれるカンタンなスクリプトだったので使っていますが、biscoさんのところの開閉スクリプトをお借りすれば、まともなメニューになると思います。

□新着記事
6つのメニュー項目のうち、少し特別なのは「新着記事」です。
これは各記事への頭出しアンカーとなっています。固定リンク(個別記事)では一般的な「リーセントエントリ」に変わります。
□カテゴリ
各カテゴリにカラーを設定しています。これはカテゴリ名をクラス名にしているだけのことです(なので雑記を「zakki」としている)。未設定やクラス名にならないカテゴリ名はデフォルト色になります。
□文法違反
ドロップダウン部のHTMLは<a><li>●</li></a>となっていますが、
<li><a>●</a></li>の記述が正しいようです。

■エントリ(記事)
いわゆるフレーム形式です。ヨコ幅は、上のメニューの境目と合わせて算出、タテは可変にしようと思ったのですが、height○%だとブラウザによって映らなくなる回避措置が分からなかったので固定。

□記事タイトル
カテゴリカラーを設定しているので、ぱっと見でカテゴリの見分けがつきます。
本文にドロップダウンと同じ(クリックー開/ダブルクリックー閉)のスクリプトが入っています。実際、読む上で開閉できるメリットはあまり感じられません。
★ちなみに本文全体がスイッチになっているので、どこをダブルクリックしても記事が閉じられてしまいます。
custom_pn03.jpg


□同月アーカイブリンク
「投稿カテゴリ」には、同カテゴリアーカイブへのリンクがかかっているのだから、「投稿年月日」には「同月アーカイブ」へのリンクがあって然るべきと考えました。スクリプトオフで閲覧した場合、ドロップダウンが開かなくなることへの対応でもあるのですが、投稿カテゴリ/投稿年月日で片方だけ同アーカイブへのリンクがかかっているのは、バランス的に不均衡と感じていたからです。

□コメントプレビュー
コメントリストを同じスクリプトで強引に仕込んでみました。開閉が同じイベントハンドラと言うのは不便です。というかムチャクチャです。
コメントがついた時すぐ読めることも含めて、記事より上に展開してもいいのではと考え、この場所設置されています。要再考。

□追記プレビュー
コメントリストと合わせて、「ページ遷移を抑制し、1画面で済ませる」がコンセプトなので、追記も表示されます。トップページに表示されてしまうと「追記」にする意味がないかもしれませんが…。プレビューできれば充分なので、小窓で表示されるようにしました。固定リンクへ行けば展開表示されます。

□文頭・文末アンカー▲▼
「サイトトップ/ボトム」へ移動するアンカーは一般的なのですが、そんなに大幅に跳んでも、あまり便利に感じなかったので一記事ずつ昇降できるアンカーにしました。事実上、次の記事への頭出しに使えます。一番下にのみページトップへ返るアンカーがあります。
小さいスクロール枠にエントリをいれてしまったので、文頭・文末アンカーの便利さはあまり発揮されてない気がします。だいたいSafariではcssスクロール内でのアンカーは利かないようですし。
フレームに入れずにこの「文頭・文末アンカー」を使ってみるとかなり便利です。次のテーマはスクロールフレームからの開放ですね。

■各モード
custom_pn04.jpg

□月別アーカイブ
もっとも表示数が多くなるので、タイトル一覧を表示。もちろんそのまま開閉可。カテゴリカラーで、どの部門の記事か一覧して分かります。

□カテゴリ他
200字サマライズを表示。そのまま開けたい記事をクリックすればフル表示に変わります。

■不具合
MacIEでは、「overflow」で表示を隠すことはできるのですが、不完全な状態です。ブラウザのスクロールバーの長さを見ると、エントリ(記事)の高さが全部読まれています。

これは私のマシン個体の問題か不明ですが、Safari1.2では、cssでつけたスクロールバーを動かしていると、スクロールがフリーズする現象がありました。1.3にアップデートしたところ改善されましたが、cssのスクロール内のアンカーは機能しないらしく、「文頭・文末アンカー」「記事頭出しアンカー」は使えません。

■懸案項目
・解像度800×600で閲覧すると見切れるので、ひとまわりコンパクトに。
・〈sameday〉への対応。
・本文中に絵文字を入れるとずれるらしい。使った事がないのでわからない。

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