2006年03月 - ポエツ | poets

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夜曲 11月のショパン

11chopin.jpg
一群嗜血的螞蟻 被腐肉所吸引 我面無表情看孤獨的風景
失去妳 愛恨開始分明 失去妳 還有什麼事好關心
當鴿子不再象徴和平 我終於被提醒 廣場上餌食的是禿應
我用漂亮的押韻 形容被掠奪一空的愛情

為妳彈蕭邦的夜曲 紀念我死去的愛情
而我為妳隱姓埋名 在月光下彈琴
對妳心跳的感應 還是如此温熱親近
壞妳念那鮮紅的唇印

血に飢えた蟻たちが 腐肉に群がる
私は表情すらなく孤独な影をみつめる
あなたを失って初めて愛を知った
あなたを失ったいま欲しいものなど何もない
鳩は平和の象徴なんかじゃなく 餌をついばむ禿鷹だと気づいた
私は韻を踏んで この失われた愛を詠う

君がためショパンの夜曲を奏で 過ぎ去りし愛の爪痕を残そう
私は月明かりの下 ピアノを弾く匿名のピアニスト
あなたの温もりは消えることなく残っているのに
あなたの艶やかな唇を色褪せることなく思い出せるのに

今回の訳詩は、周杰倫『夜曲~十一月的蕭邦』(ジェイ・チョウ『11月のショパン』)です。
語学の教諭に言わせると周杰倫の歌詞は、現代的な言葉や隠語・押韻が多用されていて、中国人でも聴いてすべて分かるものではないとか。
本作品は、周杰倫の詞の多く手がけている方文山によるもの。今回の【私訳】は全体量の半分だけです。難しくて訳し切れなかった(意味はとれても、押韻を訳しかねたり)のと、やはり超メジャーとあって、訳詩を発表しているサイトが多いため、なんちゃってイラストと「合わせ技一本」で逃げることにしました。イラストはMV(MusicVideo=クリップ)から起したものです。

私訳に際しては「インタプリタかなくぎ流」の解説が大いに助けとなりました。こちらで確認するまで私は「對妳心跳的感應」を「君へのときめき」と誤訳していました。その他、こまかい言葉のニュアンスなど興味深い解説です。

[参考]インタプリタかなくぎ流
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ゴドーを待たせながら

あなたが魔法を使うことはわかっていて、
その魔法にかかっているのは幸せなのかどうかわからなくて、
それは魔法が切れる日の来るのをわかっているから。
答えはいつもいつもとても単純な積み重ねの向こうにあって、
単純な積み重ねだからこそ自分には向いていない。

たぶん、もっとも確かな方法はこれしかない。
その魔法が切れる前に、今度はこっちが魔法をかける。
@The World vs. Star Platina 「今度はこっちが時を止めた」!


Grasshopper Enterprises「時間の止め方」
たしかに秒針が止まって見える。言われてみれば、日常でも秒針が止まってみることはある。
私の長年の考え方で言えば、「時間」というのは果たして物理法則に属しているものか疑問がある。時間と言うのは観念の中で流れているものでしょう? それを言い出すと空間把握でも何でも観念だし、人間が言語化によって外部を認識している以上、すべてが観念だ、とも言えてしまうのだけど。

それは極論としても、よく言われるように、「空間」が物質に還元できるのに対し、「時間」は質量がない。〈時間子〉というのも存在しない(未発見)。時間を動かしているもの自体がわからない。また「時間が動いている」として、「空間が前後に移動できるのに対し、時間は常に過去から未来への一方向へしか移動できない」という考え方にも陥穽があると思う。「過去から未来」が「前後一方向」と捕らえていること自体が、人間の主観でしかない。前後一方向だと測量しないと証明にならない。ってことで時間て、やっぱり物理法則じゃないのではないかと。
ちなみに「時を止める」ことができたとして、止まった世界では光すら止まるはずです。もちろん磁力もね。視覚というのは、目に入ってきた光(の粒子or波長の反射)を解析して得ているものです。仮にその「止まった世界」で、自分の肉体だけがその物理的静止法則から自由だったとしても、そこで動いたところで、満足に視覚すら得られないんじゃないでしょうか。だって光も止まってるんですから。

他人の不幸は蜜の味「3/23日記(蕎麦の薬味メモ)」

・蕎麦の香りというのは大変デリケートな物だと思う。注意して味わわなければ分からない。


ここ数年は『最後の晩餐』には「日本そば」と決めている私です。
台北でもそれなりに(中華はもちろんですが)、パスタでも、日本式ラーメンでも、カツ丼・うな丼でも、なんとかなるんですが、蕎麦だけはたぶんいけません。
まだ学生の時分、三月上旬の寒いころ、相方と鎌倉まで蕎麦を食しに参りました。猫舌のせいで、子供の頃はざるそば派でしたが、大人になってからは熱い派だったんです。ところがそば屋に入ると、「うち、熱い蕎麦おすすめしてないんですよ。薫りがなくなるんで。熱いの食べるんでしたら、うちの味だと思わないで下さいね」とか注意されるんです。時刻は夕暮れで、暗くなるとともにしんしんと冷えてくるころ。熱いのがすすりたいんで、意地でも熱いので通しました。相方は逆に意地でざるそばを頼んでました。

上記の記事を読んで若干恥ずべきこととは思うのですが、私はネギもワサビもどばどば入れる派です。そうしちゃえばコンビニの蕎麦でも似たような味になります、ってそれがいけないんだって。ハイ、ケチャップやマスタードなども同様な使い方をしますです…。
[関連]「つれづれ蕎麦」


R30::マーケティング社会時評 「劇評『ベケットライブvol.7 見ちがい言いちがい』」
まだ読んだことがないジェイムズ・ジョイスもそうだけど、これらの作品って、「人類が核の火を持った」というのに似ている気がする。ブンガクというワクを超越しているような。とても偉大な発明には違いないし、それを建設的な方向に転化できるかは人間次第なのかもしれない。
「闇」という言葉について、一部従来的な解釈と齟齬があるので注釈する。
闇と影は違う。「闇」は始まりにあるもの。開闢の時から世界をあまねく満たしている、善悪でも清濁、正負でもない。「光」は闇の中に作り出される力で、その力が呼び起こすのが「影」。光が強ければ強いほど、影は深く濃くなってゆく。
光と影の相克がドラマであるなら、『ゴドーを待ちながら』は清も濁もない「闇」なんだと思う。そこに巨大な空虚を見て、恐ろしさや寂しさを感じるか、あるいは静かな闇に安らぎを覚えるか。

『ゴドーを待ちながら』なんてタイトルを聞くと、演劇論をぶっていた学生時代を思い出す。私はいま、何を待っているんだろうか。
たぶん、もっとも確かな方法はこれしかない。
ゴドーを待つんじゃなくて、今度はこっちがゴドーを待たせる。

満州鉄道は単線だった

司馬遼太郎『項羽と劉邦』は、大学入学のころ読むのを挫折した一冊だ。
その後も年に一、二回手を付けてみては、やはり挫折をくりかえした。ようやくこの本がおもしろい! と読了できたのは四年生になるころだったと思う。その後は四度ほど完読した。
なにがそこまで苦だったかと言えば、『項羽と劉邦』にはやたらと食糧の話ばかりが出てくる。英雄たちのもとに集まってくる兵たちはみな、食にありつくのが目当てで、項羽や劉邦は雑兵たちの食糧確保にしきりに難渋する。そして少しでも食が途絶えれば、集まった兵たちは離散する。
少し後になって、これを「兵站」と呼ぶのだと知ったが、当時は何がおもしろいのかわからない。英雄豪傑たちが快活に活躍し、彼らを慕って忠実な兵たちが馳せ参じ、高い志をかかげ、熱い戦いを繰り広げる活劇を期待している私には、あまりに退屈に感じられた。

当時「最近、ブンどうよ?」と声をかけてくる同級生がいた。
初め何のことかと思ったら、彼の言う「ブン」とは文学のことで、「最近おもしろい小説読んだ?」と聞いているのだった。ちなみに彼は音楽を「オト」と言っていた。「最近、いいオトある?」の意味は上に同様である。
逆に彼にたずね返すと、彼から「司馬遼太郎の『項羽と劉邦』」と答えが返ってきた。私はあんなにおもしろくないのよく読めたね、と言った。

戦争は壮大な算術に基づいてなりたっている。
兵隊と言うのは、どこの国の軍隊でも、なんでやたらと行進させられるんだろうと思っていたら、実はそれぞれの行進速度で歩幅が決められていて、一歩の歩幅が何十センチで、一時間行軍すると何キロ進める、というのを計算するためだと知った。
観兵式のためのページェントなんかじゃなかった。考えてみれば当たり前のことだ。数万の人間が列をなして移動する。それぞれ歩幅も速度も違う。そのままにしておいたらすぐに大渋滞だ。目標地点にいつ着けるか、計算がたたなければ作戦も立てられない。

私が石田三成に惚れたのもそこだった。
朝鮮半島へ十数万の軍隊を送るために、各地からどう九州へ兵を集合させるか、どれだけの数の船に分乗させるか、渡海した先で各隊にどう食糧を行き渡らせるか… ひとつ間違えば大惨事どころではない。
さらにすごいのは、結果これが撤退戦になったことだ。海を隔てた地から十数万の敗兵の引き上げを、三成はみごとに指揮したと言っていい。進軍より撤収の方が条件が厳しいことはいうまでもない。

これはいつの時代でも同じだ。
太平洋(大東亜)戦争のころ大陸を横断していた鉄道は基本的に単線だった(どこからどこまでが「満鉄」かは措く)。単線と言うことはつまり、往・復の車両が行き違うためには、複線になっている個所(駅など)で、それぞれがすれ違うのを待ち合わせねばならない。
当時のアナリストたちは、ソビエトがモスクワから極東まで兵団を運送するためには、どれくらいの時間が必要かを当然シミュレートしていた。単線での移動効率は良くない。モスクワから送られた兵力が、極東に集結できるまでは相当の日数がかかる、というのが正しい「計算」だった。

しかし歴史で周知のように、ソ連軍の満州侵攻は大方の予想を裏切る速度だった。
読んだ本によれば、ソ連軍は鉄道を「一方通行にしか使わなかった」というのだ。片端からどんどん車両を送り出し、到着した車両は線路から下ろす。車両を引き返させようと考えるから、どこでいつ車両を交差させようか、という複雑な計算が必要になる。計算したところで、運送効率の上昇はたかがしれている。往路のみを考えれば、そんな計算など無用の長物。
とは言え、これは常識を前提から覆す、破壊的発想だったともいえる。

…とここまで書き連ねておきながら、この文章には何の結論もない。
「Life is beautiful」の記事『ソフトウェアの仕様書は料理のレシピに似ている』を読みながら、ふと連想したよしなしごとを書いてみただけだったりする。
こちらの記事は「仕様書を書くだけの人と、実際にプログラムを組む現場との距離感・断絶、とその弊害」について書かれたもので、私の話題とはかすってもいない。

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