2006年05月 - ポエツ | poets

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ドメインスティック・バイオレンス

【ドメインスティック・バイオレンス】Domain-stic Violence
にわかなグーグルアドセンスの停止から、風雲の訪れを予感させるここ数日のFC2ブログです。と言っても、遁世の庵である当サイトには関わりのないことでござんす。

【いいわけ】
なんかコメント欄でエラそう(に思われそう)なことを書いてしまったので、エクスキューズ。
細かいワリには、16×16原寸に落とすと、ほとんど違いはない罠。



【「追記」じゃなくて「追加」】
1年前にブログを開設する際、もっとも気になっていたのは「追記」機能の有無だった。FC2ブログはもともとリアルの知人が開設していたので「追記機能」があるのは知っていた。実際に運営を始めてみると、自分では使わない機能だとわかった。

なぜ「追記」スタイルを採るのか、はsugarさんも何度か話題にしていたと思う。(一般的には省スペース化できるからというのが最たる理由だろう)。私のスキンデザインはこれまで、記事本体部にスクロールバーを表示させる、あるいはトップページでは記事全文がないスタイルだったので、「省スペース化」の必要はなかった。
それで<!--more-->という変数はずっと遊ばせたままなんだけど、ぴのさんの記事を読んで、なんか別の使い方をしてみようかと思った次第。
ぴのBlog「『続きを読む』の別の使途」

つまり追記を記事の続きとしてでなくても使う事が可能です。例えばサイドバーやフッターに表示させるとか…


[参考]ぴのBlog「自分用メモ2。個別ページの表示切替」

実はこの5月のエントリがぜんぶ「雑記」で、ひとつのエントリ内に短い記事を2、3日継ぎたしていくスタイルです(現在、環境的にまとまった記事とか、カスタマイズとかできない状況になりつつありまして)。
<!--same_day-->とはまた違う括りになるんですが、記事を継ぎ足す場合、以前の記事の後ろにつけようか、上に乗せようか、少し迷ったのです。「追記」という名称であれば「本文…追記」の順で然りでしょうけど、新しいトピックを足していくんですから、「上」に載せていかないとweb的には読みづらい。翌日に追加した話題が、前日のトピックの下に継ぎ足したのでは気づかれにくいかもしれない。
どうせ使っていない機能ですから、最初のエントリに「追加」していく場合には「追記」扱いで投稿するのもありでしょう。この場合、記事の「追加」であって「追記」ではないので、テンプレートの構造上<%topentry_moret>〈追記〉を<%topentry_body>〈本文〉の前に置いてもいいかとも検討中。

更にはまったく<%topentry_more>を記事としては使わない、という手もありますね。

<!--more_link--><!--not_date_area--><!--/more_link-->
<%topentry_body>
<!--more_link--><!--/not_date_area--><!--/more_link-->

たとえば、こんな構造にする。エントリする際に「追記」にスペースでも何でも適当に入力しておけば、特定のモードでその記事を表示させなくできる。何の役に立つのかは分かりませんが。
★追記:上記の方法では意図したようには動作しません[訂正記事]


【ソナファビ】
内容的には別に運営してるサイトのものですが、もろもろ末期症状なんでこっちで、…じゃなくて『ブログ運営に必要なことは管理者ページに備わっている』のささやかな宣伝も兼ねてこちらに。
SAMPLE

『管ソナ』のサイトデザインに因んで、今回のファビコン設計の起点となっているのは、「管理者ページのカラーリング」です。「管」とか「Q&A」といった文字を用いず、「管理者ページ」のイメージを図案化。配色を固定してみたら、今までいかにシェイプの悪さをカラーリングでゴマかしていたか、気づかされました。そしてこのこれだけの色をコントロールするセンスもないことにね(モノトーンラブ!)。

a)は前座みたいなものなんでよしとして、c)は6色、Fブロレッド、リンクのブルーと各サイドメニューの4色。c-1なんかは結構「管理者ページ」っぽいですけど、単体のデザインとしては…お粗末な。
d)は1色(2色)減らしたので、いくぶん落ち着いてます。4色のブロックがなんか雛飾りのあれみたいですね。上部分がなくなって、全体のシェイプがスクエアでなくなってしまったので、ファビコンぽくないかな。ということで、上下に配色を分けたのが b)。e-1はデザインの良し悪しはおいて、味があって好きなんですが、背景の4つ窓に配色を分けると、「管理者ページ」というより、別のあのロゴと似てます。f)お座りネコは「アルキカタ」プライマリじゃないので…? 
え~…要再考で(次はあるのか?)。あれ? その前に課されたお題がいくつかあったような。その点は本当にもう末期症状なんで、なにとぞご容赦ください。

【etc】
:: H & A :: blog「問題にしたい人がいるから問題になる」
かなり以前に読んだ、鴻上尚史のエッセイに「記者は『これ問題になりますよ』と言うけど、『これ問題にしますよ』というべきだろう」とあった。
東京の地下鉄に乗っていると、「ドアが閉まります」とアナウンスする時と、「ドアを閉めます」という時があるけど、人為的に閉めているわけだから後者が正しい? このへんになると、日本語の用法と日本人の精神構造が不可分に相互作用しちゃってるんでどちらとも言えない。
ちょうど上のような叙述で言うと、原爆投下や東京大空襲の被害が「天災」が起きたかのような語調で書かれていた記事があって、日本語ってなんかすごいなと思ったことがある。たしかに日本語の慣例的な用法としては「戦争で死んだ」とは言っても「戦争で殺された」とは言わない。
小学校の頃、理科の実験でプレパラートを割ってしまった。先生に「プレパラートが割れてしまいました」と報告すると「『割ってしまいました』と言い直しなさい」と言われました。確かに。言葉ひとつとは言え、これらは精神構造にも深く絡んでくるのだと思う。

極東ブログ「初恋の味」

この分野のメチニコフ学説は単純に否定されているだろう(だって菌が腸に届かないんだし)と思ったが、日本では面白いことにヤクルトなんかでもそうだけど、メチニコフ学説のカルチャーが胃酸にも耐えてしぶとく生きていてなかなか無下に否定もできない空気が漂っていて(引用後略)


言われてみれば確かに、胃酸が…
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ベゼル

【昼行灯】
感慨で胸がいっぱいになって、どう形容していいかもわからないとき。
甘える意味も含めて、誰かに話したい、もしくは誰かの話を聞きたい。もし、それが誰でも好きな相手を選んでいいとしたら。
いまなら大石内蔵助に会いたい。あなたには聞きたいことがたくさんあります。夢の中でいいから、あなたに会って話がしたい。
『ジョジョ』のキャラクターなら、アバッキオに会いたい。

理由をもっとしゃべり続けて 私が眠れるまで

【プリエンティブ・マルチタスク】
処理しなければいけない作業が目の前に3つ、A・B・Cがあるとする。それで、この3つの作業をどの順でやるか、時間や力の配分はどうするのかを判断する必要があって、この作業が「Z」とすれば、実際には n+1 が作業量になる。進行管理とかスケジューリングとか、独立した項目になる。A・B・Cが簡単な作業だったり、量が少ないうちはいいけど、個々の作業量や難易度が増すほど、管理作業の規模は累乗されていく。

集団の場合なら、管理担当を独立させて人をおくなり、部署を設けるなりするのだけど、個人の場合はどうするもんなんだろう。作業がD・E・F…と増えるに従って、指揮系統である「Z」の負荷はどんどん大きくなって、本来個別処理していけば済むだけのA・B・C…に手が回らなくなる。これでは本末転倒。かといって指揮系統なしに手近なものから、順々に当たっていくのはシンプルな方法だけど、あまり近視眼的になりすぎて、気づいたら袋小路で後戻り、てのも効率は悪い。あんまり俯瞰的に見過ぎて、捌かなきゃいけない作業の多さに気づいてしまう、というのも士気を削ぐ一因。知らなくていいことは知らないのがいい。
この按排は非常にむずかしい。

【乾坤一擲】
水溶性コンドーム#1609

今日 さいを投げた。
後は さじを投げずにやり遂げよう


このサイトにセンス(あらゆる意味での)のよさには、いつも引き付けられるのだけど、『ことばが力を持つ』とはこういうことを言うのだと思う。短い文章だから、全文引用する他ないんだけど、こんな簡単にコピペで移植していいのか、というかコピペするなんて陳腐な行為だろう。筆写したいくらいだ。


【秩序のない現代にドロップキャプス】 05/20
ドロップキャプスは紙媒体でも、私としては非常に興味のある技法(タテヨコ組みに限らず)なんだけど、扱いが難しいかもしれない。

HarukiyaArchives「ドロップキャプス」
(文章まるごと引用なんで画像化。この画像にある段落頭の装飾がドロップキャプス*)

>イニシャルキャプスが「上手くいってるなぁ」というものには出会ったことがない
そもそもの絶対数が少ないことも水準の低さの起因があるんじゃないかしら。つまりドロップキャプスを使った誌面組みを好む人が少ない。だから使われない/だから見慣れない/だから抵抗感がある/だから使われない>で循環してるんだと思う。DTPをやってた身近な経験だけで言うと、ドロップキャプスを使ったレイアウトが採用されたことがない。
1色刷り、限られた誌面、など制約された条件下でレイアウトに強弱をつけるのに、ドロップキャプスがあれば表現の幅はかなり広がる。見出しにアイキャッチのアイコン(画像)を使うよりずっとスマートでスタイリッシュだと思う。
これまで見てきた相手の反応から推測するに、嫌われる具体的な原因は、「段落頭の大きくなった文字に何の意味があるのか」と考える人が多いからだ。ドロップキャプスはその文字を強調したくて大きくなってるんじゃなく、単に機械的に段落頭の文字が強調されているだけなのだ。おそらく、日本人の感覚では文字のひとつずつが(アルファベットに較べ)意味を持ってしまっている。

「というわけで…」が書き出しなら「と」が大きくなる。かな(カナ)は表音字だから意味はないはずだけど、「と」が大きいのは間が抜けているらしい。「カメラは…」だと「・メラは…」となってやはり間の抜けた印象がある。文字レベルでなくワードレベルで、「カメラ・は」と(カメラの3文字をドロップキャプス)すれば不自然な感覚は抑えられるけど、冒頭一字をドロップキャプスしてるのに較べ、また別の意味で間抜けに見える。もちろんドロップキャプスは1文字でなくてもいいのだが、3文字なら3文字として、同記事内を統一すると、別の段落冒頭が「デジタルカメラは…」だと「デジタ・ルカメラは…」となってしまう。
逆に漢字は困ったことに、一文字ごとの意味・印象が確立している。「明日は…」なら「明」が大きくなるが、「明」一文字が強調されると別の意味を見いだしてしまって、「あした」という単語以上の意味になってしまいそうだ。「は言われました」とか、「というものは」、であれば確かに「文頭強調」として捕らえても格好はついているのかもしれないが、段落頭にくる文字は一定じゃない。もといくりかえすと、ドロップキャプスは視覚デザイン上、ある文字が大きくなっているだけで、その文字の意味を強調しているのではない。

欧米の誌面(紙面)レイアウトのドロップキャプスは、2、3行どころじゃなく、6、7行ぶち抜きとかする。ここまで文字サイズに落差があると、本文を読み始めたときに「あれ? 始めの一文字がない。脱字か」と一瞬思ったりする(私だけか…)。本文の文字サイズを読む視界では、ドロップキャプスされた1文字目があまりに大きくて、視野から外れてしまう。

*MacIEでは2バイト文字?に対応してないようだ。
【資料】あの頃のように…「:first-letter と :hover の微妙な関係」

【ベゼル /bezel】 05/20
いつも新製品が出るたびに、思い出せない、あの単語。えーとラッチじゃなくて、ヒンジじゃなくて…
黒「塗装」ではないというこだわりは、さすがにおもしろい。光沢ディスプレイ採用はどうなのだろう。ラッチレスはシェル型iBookみたいで好ましい。いずれ買わないから関係ないけど。

【fuben-navi】 05/20
・パーマリンクで前後記事への移動がない。月別アーカイブで前後月への移動がない。
・そこでインデックスページに戻るなりするほかないのだけど、「トップへ戻る」も見つけづらい。
・どこがパーマリンクの入り口か分からない。仕方ないので「コメント」からパーマリンクへ移行。

【水ください】 05/20
1年ちょっと生活していて、もっともあんまり活動的でないせいもあるんだけど、今さらのように気づかされることがある。
日本だと飲食店に入れば、まず水(おひや)が出されるのが普通だ。老夫婦のやってる大衆食堂でも、富士そばのようにセルフでも。台湾は飲食店に入っても水(おひや)が出て来ない。ある程度の規模だとお茶なら出てくる。比較的新しいカフェなら、ピッチャーに水がある(セルフです。だけどスタバにはない)。
先日、同僚と台北駅近くの百貨店内の飲食店に行ったのだけど、(高級店ではないけど、百貨店内にあるって点では、規模や雰囲気は日本のそれをイメージしていただければ)水が出てこない。
このときは二時間ぐらい前からずっと喉が渇いていたせいもあって、席に着けば水が出てくるという先入観(期待感)が特に強かった。考えれば当たり前なんだけど、こういう百貨店内の新しい店でも水を出すってことがないんだなあ、と文化習慣の違いを実感。

おいしがり

【細部にこそ神は宿り】 2006/5/16

これはSafariのタブなんですが、×印はクリックするとタブページを閉じることができます。FirefoxやNetscapeのタブにはデフォルトでは付いていません。代わりにタブ部にもファビコンが表示されます。Operaはその両方を兼備してます。
小さなことではあるけども、ここでタブページを閉じることができるのはとても便利です。もちろん右クリックでメニューを出して、閉じることもできますが、この×印のほうが直感的で何よりも早いです。重ねて、SafariはMacOSのブラウザですから、マウスがシングルボタンであること(右クリックなんてない!)も考慮されてのことでしょう。

ブラウザに限らず、OSでも、カメラや携帯電話でも「こういう機能がついていればいいのに」、「私にデザインさせてくれれば、こうするのに」と思うことは常日ごろあっても、工業デザインなどはシロウトが個人で携われるものではありません。
その点、ウェブ制作というのはずっと敷居が低く、必要な初期費用といえばネット環境くらいなもの。そして敷居の低さといえば、ブログは現在のところその最たるものです。
加えて、PCのデスクトップデザインや愛車のカスタマイズなどのように、あくまで個人使用のものと違って公開されているものだし、更には制作物を共有・配布することもできる。ウェブのデザインをしていて楽しいのは、例に出したSafariタブのような類いの、細かい工夫を凝らすことです。個人使用の範囲では「これ便利でしょ」ってアイディアを付加しても、恩恵に預かれるのは自分一人でした。
そして〈デザイン〉=設計、の神髄といいますか、本領とはここにこそあるものだと思うのです。兼ねて主張してきたように、デザインとは「飾り付け」のような、視覚装飾のみを意味するものじゃない。バックグラウンドの色を変えたり、画像素材を入れ替えたり「だけ」で、確立したデザインとするのは、相当のレベルが要求されるんでないかと思う。

[関連]日々是マルディちゃん(仮)「Firefox2.0のタブの×ボタンを消しちゃうぞ!」


フィッツジェラルド『グレートギャツビー(偉大なるギャツビー)』

ひとを批判したいような気持が起きた場合にはだな」と、父は言うのである「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思いだしてみるのだ」


情けないことに読んでないですが、冒頭のこの有名な個所は知っております。これは謙虚なのか、むしろ却って傲慢なようにも思えなくもない。私の場合は相対的な視点というか、人によって知識や経験に偏りはあるわけで、たまたま彼我の守備範囲が違っていたと思うことにしています。

本日のできごと。WindowsIEのツールバーがよくわからなくて、「文字の拡大ツールどれですかね」と聞いたら、「は? 文字の拡大なんてできるの!?」、「ウェブ上の文字なんて拡大できるわけないだろ!」など、周囲から白い目で見られて、さすがに閉口しました。私こそ問いたい。あなたたち、多かれ少なかれインターネットを使ってるのになんで知らないの?
ま、これじゃほとんど愚痴ですけど。関連ありそうなクリップ。

あんたジャージでどこ行くの「『普通の人』の恐るべき実態」

「君たち(みたいなPCオタク)は知ってるかも知れないけど、こんな事、誰も知らないよ!」と逆ギレされたのでした。で、僕はそれに腹が立ったというよりも、すごく恐かったわけです。


R's Weblog「Fx は人気がない?」

だって興味がなんだからしょうがない。むしろ知らないものに興味を持つことなんてない。


おどり読書「まあ解決策なんてないんですが」

ホームページなんて好きなの選べるんですよ、検索サイトはそこだけじゃないですよ、と教えてもふ~んてな感じで不思議な顔されます。いや別にこれで困ってないし、みたいな。
そういう人たちにWebのサービスを説明するのは、ホント根気がいります。


ブラウザに限らず、どんなアプリケーションにでもそうですが、「とりあえずツールバーとか、全部の項目を開いて見よう」とは絶対にしないんでしょうね。FC2ブログなんかもそうですよ。とりあえず管理画面の項目をひととおり開けてみておくことです。なにしろ「ブログ運営に必要なこと」はだいたい「管理者ページに備わっている」んですから。



【おいしがり】2006/5/17
大食い・早食い競争の類いは幸い一過性の人気でしかなかったものの、文化の退廃というよりもはや、非文化どころか非文明ですらあります。じゃあ逆に美食(グルメ)はどうなのかといえば、こちらも「鉄人」、「料理ショー」だの競技化・遊戯化されるとやはり大差のない気はします。
料理には「ボク作る人・キミ食べる人」という彼我あって、競技にせよ文化として享受するにせよ、どちらに立脚するのかによって視点は大きく変わりますね。早食いにも美食批評にも欠落している要素は「おいしそうに食べる」ことです。美食では「料理」そのものが対象になるのですが、この「おいしそうに食べる」の場合、対象は何でもいいのです。ポテトチップスでもフォアグラでも、富士そばでも。
コンテストを催すのなら「おいしそうに食べるコンテスト」をすべきだし、これは誰もが幸せになれる方法であり、かつ一定の文化程度を要求されることでもあります。「おいしそうな食べ方」には、周囲を不快にさせない作法や礼儀を要する部分もありつつ、豪快に食すという健啖を表現する必要もあります。また競技者によって「麺がすすらせたら随一」とか「りんごをかじる音が世界で最も心地よい目覚まし時計のようだ(意味不明)」など、料理食材による得手不得手もあったり。

もしそんな競技があったら、競技者は食品のテレビCMに重宝されるでしょう。そういえば何年か前、永谷園のCMでお茶漬けをすすっていた青年は、本来カメラテストだった人が、あまりの食べっぷりのよさに本番に起用された、という噂を聞いた覚えがあります。
彼はとてもハンサムでしたね。いや、顔がどうのと言うんじゃなく、ものをおいしそうに食べている人って、やっぱり素敵だったり、可愛いし、セクシーに見えたりするものです。「モテる」ための重要な要素のひとつだと思います。

身近にも「本当においしそうにたべるひと」はごく希にいて、その人が食べてる様があまりに美味しそうだから、自分も注文したら意外に不味かったり(笑)、あるいは今まで嫌いだった食べ物を、その人の食べる顔を思いながら食べてみたら、存外美味しく感じられたりすることもありました。
そして「おいしそうに食べ」てもらえることは、料理を作る側にもこの上ない喜びでしょう。もちろん、美味しいと思っても表情にそれが出ないだけの人もいるわけで、「おいしそうに食べる」というのは、ひとつの優れた表現力です。しかし誰でもが持てる能力でもなく、また日常で特に注目される能力でもありません。しかし、これは間違いなく周囲にいる誰しもを幸福にできる、実に尊ぶべき力なんだと思うのです。


【あともう少し、そばにいて】2006/5/17
「最後の晩餐」には日本蕎麦がいい、と思っている筆者です。ここで言う「最後の晩餐」というのは、この世の終わりの喰い納め、のことでしょうか。そういえば蕎麦アレルギーだった以前の同僚が(食べたら生命に危険があるので)、どうせ「最後の」晩餐なら、蕎麦でもいいかな、と言っているのを聞いて、意味が相互補完してる気がしました。

それはともかく、日本人といえば世界的に有名らしいのは「蕎麦を音を立ててすする作法」です。
ただやはり誤解されているのは、「音が大きければ大きいほどいい」とか、細かな点で異議立てしたくなる部分はあります。日本人でも麺をすする音が嫌いな人は多からずいるし、それ以上に、「すする音」に品がない人がいて、そんな音は誰だって歓迎しません。あるいは逆に、なよなよした音で麺をすすられても、それはそれ不発のくしゃみみたいな気持ち悪さがあります。

そもそも、どうして麺をすする際、音がするかといえば、できるだけ麺つゆを麺に絡めて口内に送り込むためではないかと思うのです。その点、パスタのような麺であれば、すすり上げないような作法でも味覚には大きく影響を与えませんが、たとえば蕎麦やラーメンではすする力が弱い(音がしないようにする)と、絡まるつゆの量が変わりますから、当然味も変わってきます。実際試してみればわかることと思います。単純に礼儀作法で割り切る事象でもないかもしれません。
ちょっと本旨から外れますが、ある食材なんかは(たとえば果物とか)、食べやすいようにと気を利かせて一口サイズに切ってあると、かぶりつくのとは味覚が変わってしまって、がっかりってこともあります。

台湾では、カップ麺のCMなどではすする音をさせていたりしますが、やはり日本ほど大きく音を立てないようです。ちょっと驚いたのは、せまい大衆食堂なんかに入って、自分の向かいや隣に座ってるひとが麺を食べていることに気づかなかったことです。それくらい音を立てずに麺を食べる人も多いです。


【鳴っているのは右の手か左の手か】 2006/5/16
「ねえ、私のこと愛してる?」
「……」
「ねえ、なんで答えないの?」
「もし、『愛してない』って答えだったらどうする。そしたら君は傷つくんじゃないか?
僕は君を愛してるから、傷つけるようなことは言いたくないんだよ」

…はて?

用FC2,寫部落格日誌也都簡單阿!

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