2006年07月 - ポエツ | poets

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iPod をぶっとばせ!?

[参照]Engadget Japanese「マイクロソフトのiPodキラー"Zune"まとめ」
マイクロソフトが兼ねてよりアップル iPod シリーズの対抗馬として開発していた携帯オーディオプレイヤーの情報が出ています。
私としては、ソニーのウォークマンの悪あがきを見つつ思っていたのは、かくたる戦略もなしに現状の iPod に挑むのは、無為に屍の山を築くに等しい、と。iPod をその端末単体で捉えて、デザインがどうのスペックがどうので勝負を賭けるのは錯誤でしかない。iTunesなり、更には iTMS までの周辺構造を円環的に把握してかからねばいけないんじゃないか。賢い経営者だったら、今の iPod の牙城を切り崩そうなんてしないのが最良の選択だと、私は思ってました。

でも、それってもしかして賢くもないし、理にも適ってないかもと、考え直しました。たとえば仮に、その考え方でどの企業も撤退した場合、iPod の独占状態になってしまうわけで、とりあえずなんか出しておくだけでもつっかえ棒にはなりますよね。だいたい市場占有率100%って現実的に起こりにくいんじゃないでしょうか。ああ、そうか、「iPod の牙城を切り崩す」なんて大仰なことじゃなくて、余ったシェアでそこそこ売って、それでも利益がちゃんと出るようにコストを抑えるとかの工夫をすればいいんだ。

でも、ちょっと待て。天下のマイクロソフトが参入してきて、その売り方はないだろ。やっぱりここはガチに戦国時代突入ですか。OK、ビル、その心意気買った! あたいは根っからの判官贔屓ですからね、あのジョブスをへこます加勢をしますぜ。
ということでブレインストーミング。

・ヘタな差別化はやめてみたら?
デザインを見分けつかないくらい同じにして、iTunesにも対応。なんなら商品ロゴとかも、リンゴの左上が欠けてるマークにするとか。 →それはただのパチモンです

・大胆に機能を削ってみるとか。そうだ、思い切ってディスプレイなしとか! → iPod shuffle です。
・思い切って音楽再生機能をなくすとか! →???
・ゲーム専用端末にしてみる →PSP?
・じゃあ画面ふたつにしたらどうだ? →DS?

ごめん、ビル、ろくなこと思いつかなかったよー。
そんなわけで、現行の iPod に関する、小さな改良案を二、三書いてみます。iPod の機能のほとんどはその画面内で、選択・実行されます。でも外部のスイッチから、アナログにというかダイレクトに実行できないと不便な機能もあります。
たとえば液晶画面のバックライト。オンにするのも画面上での設定なので、「暗くて見えない」って状況になったときにはもう使えません。オン設定にすると不要な時にも点灯して電力のムダだし。それから曲のリピート機能。聞き流している最中に、ふと「この曲しばらく繰り返したいな」と思いつくことが多々あるのだけど、スイッチ一発で、「今聴いている曲」をエンドレスリピート(そして解除)ができたら便利。

iPod がシンプルなインターフェイスを実現している反面、そこに拘泥しすぎて操作性を落としているとか、機能を制限している、ということは兼ねてから指摘されています。「ボタンひとつ増やすだけでも…」という意見もあるのですが、ワンボタンマウスを堅持し続けるアップルスピリッツなのか(”Mighty”もデザイン上はワンボタンのまま…)、iPod もボタンひとつとて増やさない姿勢のようです。
さて iPod の制御スイッチはクリックホイールの他にもうひとつあります。トップ部についた「HOLD」スイッチです。クリックホイールの入力を遮断する装置なので、外部に置かざるを得ない部分です。ここに機能の割当を増やせないでしょうか。

まず、HOLD解除中は押し込めるようにして、液晶画面のバックライトを点灯。放してからもホイーリング中は点灯を維持。持ち運び中は通常「HOLD」にしておくので、カバンの中で点灯する心配はないでしょう。次にスライドを2段階にして、どちらも「HOLD」になるのだけど、奥(2段目)までスライドさせると、「再生中の1曲をリピート」になる。これなら聴いている最中にふと「この曲を繰り返しさせたい」と思いついたとき反射的に実行(解除も)可能。もちろん再生中でない場合はなんの変化もなし。なんて二つとも私が欲しいって機能で、どうせ割り当てるなら他にもっと適切な機能があるでしょうけど。
こういう工業製品もサイトみたいに簡単にカスタマイズデザインできるとおもしろいんですけどね。
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賛否両論

少し前にサッカー世界盃にあまり興味がないと書いたけど、決してスノッブな意味で言っているんじゃないですよ。
それで、引退を表明した中田英寿の事実上最後の試合となった対ブラジル戦も映像は見ていません。引退のニュース映像で、試合後にフィールド上に横たわる姿を観たくらいです。あとはほとんどネット上で収集した情報です。
試合後長いこと倒れていたという中田の姿は、その間に彼の胸中には様々な感慨が去来していたのだろうなと、思わせてくれます。とりわけ引退を知った今となっては。

と思えば、「あのだらしなく寝そべっている様はみっともなかった」という意見もやはりありました。言わずもがな捉え方は人それぞれ、左右あって然るべきではあるけども、自分と反する考えをどう許容するかが難しんだろうなあ。
中田選手の話はともかく、昨日、作家の江藤淳についてちょっと調べていました。
江藤淳は1999年、最愛の妻の後を追うように自殺。「名文」と讚えられる遺書を残します。

心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。


「江藤淳 自殺」で検索した所、文学方面じゃなく「自殺問題」として取り扱ったサイトが結構ヒットします。

浄土真宗親鸞会「自殺を『とにかく生きよ』で止められるか」

 おかしなことに、マスコミには自殺を賛美する論調が目立った。
「奥さんの後を追って死んだんだね。とっても美しい」(石原慎太郎)
「奥さまへのいたわりや、やさしさも生涯、深く貫かれ、本当に後を追うように逝かれたのですね」(瀬戸内寂聴)
 妻の後を追って自殺するのが美しいのだろうか。
 老苦や病苦に襲われたら、みっともない姿をさらす前に自殺するのが賢明なのか。


上記は宗教団体のサイトなんで、宗教面で言えば教義として自殺を認めていない宗派がほとんどでしょう。また「社会問題」ってスキームに限って言えば、美化したり奨励したりすべきものじゃない。だけどそこで江藤淳の自死と直結しちゃうところに、私は朧げな違和感を感じてしまう。(江藤淳は「自殺」じゃなくて「自死」だって主張は、ここでは措く)
数年前の呉智英と宮崎哲弥の対談で、呉智英も自殺ってのはかっこ悪いし、認められないと述べながらも、円谷幸吉のような、人の心の中に何かを刻みつけていくような自殺は美しいと、確か言っていたように思う。
つまりは「自殺が美しい」ってことはなくて、「美しい自殺」もあるってことなんじゃないか。なんて、こう言ってしまうのも際どい奇弁で、「暴力は美しくない」けれど、ジダン選手の行為は誇りを賭けた「美しい暴力」だった、とか何にでも敷延もできちゃう。
それでも江藤淳の自殺は、人の心に美しいと思わせるものはあったと思う。もちろん、これはすでに社会問題としての自殺ってスキームではない。前述のサイト『浄土真宗親鸞会』のページに朝日新聞への投書(『江藤さんの決断』朝日新聞「こころ」のページ編)が引用されている。又引きになってしまうが

身体不自由になったことで、「生きる意味がない」と断じた江藤淳という人は、人生の意味をどこに見いだしていたのだろうか。(東京都・男性・80歳)


最初に引いた江藤淳の遺文をいま一度見れば、「形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる」というのはそういう意味じゃないだろう。もちろんその前の「病苦が堪え難し」だけにウェイトを持ってきてしまうと意味は変わってしまうけど、そういう文脈ではない。くりかえせば、自殺だから賛美する論調が多かったんではなく、それだけ多くから「賛美される自殺」だった。自殺すれば誰でも美しいわけじゃない(むしろ逆だろう)。

名言名句のウラ側は

作家・高井有一氏は、死の2ヵ月前、江藤氏の、こんな言葉を聞いている。
>夜はまだいい。周りが闇に閉ざされているから。昼は光が入って、家の隅々、庭まで見えてしまう。そこに、それまで居た人がいない。この空白感が耐え切れない。


気づいたら泣いていた、なんて安っぽいことは書きたくなかったのだけど、ふとこの文章が目に入ったとたん、しゅわしゅわと吹き出す炭酸水みたいに涙が溢れてきた。絶妙なタイミングで心の振動数があってしまったという感じ。江藤氏の魂と重なったような気がした。私の心の中に愛する人の顔がぽっと浮かんで、そしてその人のいなくなってできた、どうしようない空白を想起した。
だから私は「それでもなお生きよ」と江藤氏に言う気になれないし、同じように中田選手にも「そんなとこで寝そべるな」とは思えない。


賛否両論ついでにいうと、ジブリアニメ『ゲド戦記』の試写評がほうぼうに出てるけど、あいやこれ両論じゃなくてほとんど単論、ですね…。
Yahoo! ムービー「ゲド戦記」
手前のサイトですが、年初の記事(「七光との戦い」)で、宮崎親子の「世襲」について書きました。今になって思うと、これが”世襲”でなかったとしたら、宮崎駿は宮崎吾朗の作品の成功を願ってなかった部分があるでしょうね。たとえ同じ組織で利益を共有してたとしても、作家のエゴってそういうもの。私がその立場だったら、作品がコケたと聞けば心の片隅でニンマリしてると思います。
世襲の場合だったら自我が溶解しちゃって不可分になってくるので、親-子は延長線を形成するんでしょうけど。夏目漱石のあたりから言うところの、「日本人の近代的自我」ってのがどの程度作用してるかわかりませんが、作家としての”個”が屹立してると芸の継承は難しいだろう。でも前近代の歌舞伎役者だって、そういう意味の”個”はあったんじゃないかと思うけど。

あ、そんなわけで某作品、劇場で観るのは止めることにしました(へたれ)。

昨日の悪習

祖母が八十六歳で他界したのは昨年の二月だった。本の虫というか乱読家で、寝たきりになる最期の一、二年になるまで読書欲が衰えなかった。読むといってもインテリや文学愛好家風の読み方じゃなく、どちらかといえば「読み散らかす」と言ったほうがしっくりくる。
祖母はひどい近眼で、少し離れた所にいる人の顔などはもとより見分けていなかったらしい。反面、老眼は進まなかったようで、文字を読む時もほとんど眼鏡をかけたことはなかった。私の記憶の限り、彼女が眼鏡をかけている顔を見たことがないといっていい。家族によると、亡くなる半月ほど前のある一日、妙に元気があって、しばらくぶりに小一時間ほど新聞を読み耽っていたらしいが、もしかしたらそのときも眼鏡はかけていなかったかもしれない。少なくとも私には眼鏡をかけた姿を思い浮かべることができない。

さて、祖母の近眼だが、これは読書癖と一組のものだった。なんでもまだ十歳に満たない少女の頃から、薄暗い倉に隠れて小説を読み耽ったの原因で、幼くしてすでにひどい近眼だったという。なぜ薄暗い所に忍んでいたかといえば、親に見つかれば叱られるからだ。
読書離れが嘆かれて、もはや嘆く声も聴かれなくなった今となっては、昔日の価値観であるけど、当時くだらない読書に現をぬかすのは悪習慣でしかなかった。くだらない本を読むのが悪いんじゃなく、本を読むことが往々にくだらないことだった。この辺は江戸後期の読み本からの流れをみても判る。
「”小”説」というのが、もとい「卑小」の意味で、読む価値があるとされていたのは「歴史」だった。(『資治通鑑』とか『史記』とかのことだろうか?) じゃあ歴史書を読めばいいのかっていえば、それはそれで「学者になるわけでもなし、分不相応」っていう理屈がなりたつんだろう。

そんなわけで、「しょーがないわね、この子は、また読書ばっかりして!」と親から叱られていたイケナイ娘さんだった私の祖母は、暗闇に身を潜め字を読むうちに近眼になってしまった。時代は流れ流れて、
「しょーがないわね、この子は、またマンガばっかり読んで!」も
「しょーがないわね、この子は、またTVゲームばっかりして!」も、とうに過ぎつつある。
新しいメディア・コンテンツが登場して発達途上・普及途上にあるときには、かくのような扱いを受けるのが習わしのようだ。昨日の悪習も時が過ぎれば、ただの習慣になる。私の世代の親だと、まだTVゲームをしないけど、今の十代の親の年齢だと、自身が子供の頃TVゲームをした世代だろうし。

それから、切っても切れないものといえばエロ・コンテンツで、常に新メディア普及への最大の原動力を担ってきた。VHSのときも、DVDのときも、そこに大量のアダルト・コンテンツがあった。読み本の時代だって、多色刷りで最高の技術・費用を投入したのは春画・枕絵であって、役者絵じゃない(東洲斎寫樂はごく例外中の例外)。それだけ高コストを投じてもペイできるものといったらエロ画しかなかった。うーん、恐るべし人の性欲、業深きかな煩悩。
それを鑑みれば、アダルト分野を使って勢力を拡張してきたFC2ブログは、まったく理に適っていると言える。

[参照]
Life is beautiful「本当に生活の一部になると言及されなくなる」

用FC2,寫部落格日誌也都簡單阿!

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