2007年03月 - ポエツ | poets

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バベルと国語

久しぶりに台湾人と少し話をしました。ただでさえ覚束ない私の中国語は、更に劣化していました。
「漢語(han yu)がしゃべれるんですか?」とその台湾の小姐は言いました。
あれ?
漢語(han yu)というのは、もちろん「中国の言語」のことですが、台湾ではほとんどこの呼び方を聞きません。ものすごく極端に言えば「日本語を話せますか」を「大和ことばが話せますか」と言っているような感じさえします。
もっとも大陸ではふつう、「中国語」を「漢語(han yu)」と呼びます。現在、日本国内で中国語を学習しようとすれば、大学でも語学教室でも、書店で買えるテキストでも、ほとんどすべて大陸式のものになるでしょう。
もしかしたら、それで彼女は「漢語」と言ったのかもしれません。でも、彼女が「漢語」と言ったのは最初の一度だけでした。

「去年まで台北にいたんです」
「ああ、そうなんですね。どこの学校で國語を習ったんですか?」
と、今度は「國語(guo yu)」になりました。
日本の「国語」が日本語であるように、台湾の「國語」は中国語です。なので「國語」と言えば、つまりは中国語のことです。もうちょっと正確に言うと北京語(北京官話)です。

でも、私はあまり「國語」と呼ぶこともないんです。もちろん「國語」といえばすなわち北京語である、というのは共通認識としてあります。
たとえば日本人同士だったら「おまえ、国語力ないよなあ」と言ったら自然と、国語=日本語です。だけど外国人に対して「あなたは国語が話せますか?」とは聞きませんよね。
そんなわけで私の立場では「中文(zhong wen)」と呼ぶのがいいのかなと思います。

しかし「中国語」と言った場合、広東語や福建語、上海語なんかも「中国の言語」なわけです。私は習ったことはないので詳しくありませんが、これは「方言」程度の違いではなく、ほとんど別の言語です。
そういう観点も踏まえると、「國語」とは国家が指定した公用語である、という意味がより濃厚になってきます。数ある「中国語」の中でも、とくに北京語(北京官話)をもって、国の公用語つまり「國語」に制定したということです。
この「國語」の意味に相当するのが、大陸では「普通話(pu tong hua)」、日本で言う「標準語」です。

日本でも幕藩体制のころは、人の往来も少なかったため、他藩に行くと言葉(訛り)が通じなかったらしいです。それで共通語として能狂言のことばが使われていたとか。芸人は諸国を巡業して回るので、有名な演目のせりふなどは、他国(他藩)の人でも共通して知っていたんですね。

台湾の捷運(MRT)に乗ると、駅名が4つの言語で放送されます。中国語、英語、台湾語、客家語の4つです。
客家(はっか)語が私には意外だったのですが、東南アジアなどの華僑の多くは客家系で人口も多く、彼らの家庭では客家語で話をしているそうです。

かつて人類の言語はひとつだったが、バベルの塔を建てたために神によって言語を分裂させられた… バベルの塔の神話です。
しかし、人類の言葉はもともとバラバラで、バベルの塔を建てるために(=国家を建設するために)言語をひとつにしようとしてるんでしょう。
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ブログを分ける

前回までに投稿した「秀吉レノン & おねヨーコ」、「大きな背景 小さな構図」、「壮大なスケールで描く」、この3本は以前の私の書き方であれば、1本にまとめた長文になっていたものです。
しかし長文は書くのも時間がかかり、書いているうちにまとまりもなくなってきがちです。この3記事は3日連続で投稿しましたが、1本にまとめようと思ったら3日以上かかったかもしれないし、労力も大きかったでしょう。

それから有り体に言ってしまえば、長文記事は、やはり読むのがしんどいです。少なくとも私がよそのブログを読むのにそう感じました。どんなにおもしろそうな気を引かれる記事でも、長いとやはり怯みます。
ところが同じ文章量でも小分けにしてくれているとつい読んでしまうのですね。

時間をかけて長文を書くということは、当然更新頻度も落ちます。しかし分載(連載)であれば1日置きくらいのペースで更新ができます。そして1本1本の記事が独立、完結した話題であるよりも、「続く」にしたほうが読者も取っつきやすい気がします。
もちろん「続く」と予告しているからには、3、4日中に続きをエントリしたほうがアクセスアップにはたぶん効果的です。

次に解決したい問題が2つあります。
1つは、記事未満の短文です。日々生活していれば書きとめるべき、感じたこと、目にしたことが大小あります。でも一応「記事」という体裁にしてエントリしているブログだと、こういうのが「混在」させにくい。
なので私も、多くの方が採用しているような「1行メモログ」みたいのが作りたいと感じ始めました。

2つ目はテーマです。
ブログ内のカテゴリをわけるのはだいぶ前に放棄してしまいました(←ヲイ)。
石原慎太郎氏は「あなたは政治家ですか小説家ですか」とたずねられて、「石原慎太郎です」と答えたというのが本当かどうか分かりませんが、このブログのカテゴリは「ポエツ」でしかないようにも思えます。

検索ノイズになってしまいたくないとは思っているのですが、このブログのリファラで多い検索語は大別すると
 1、ホルガ
 2、FC2テンプレートカスタマイズ
 3、中国ポップスの訳詩
この3つです。
私は読者の獲得にとくに配慮してなかったのですが、検索で来た閲覧者が固定読者(リピーター)になってくれるかどうかって結構重要だと思うんです。
毎日、のべ数十人が「ホルガ」で検索してやってきます。もしこのブログが、写真をテーマずっと記事を書いていれば、検索で来た閲覧者が固定読者になってくれる可能性はありますよね。
ところが実際にはまだホルガも買ってないんですから、これは詐欺ですわな(微妙に SX-70 に惹かれつつあるし)。

しかし分野を特化してしまうと、読者も専門化して偏るだろうし、ブログの記事を書くにも亜流知識じゃ賄えなくなりますし… 中国ポップスの訳詩なんてのは、ふだんそういうのに縁がない人向けへの紹介のつもりもあるので、専門化してしまうのは意図してませんから。
そんなことを考えるとブログの切り分けもなかなか難しいです。

秀吉レノン & おねヨーコ

秀吉とおねの夫婦像を大河ドラマで描いたら、どうして「団地妻とサラリーマン」的な卑近さになってしまうのか? という問題の続きです。
そういえば「団地」なんてことば、最近は聞かなくなった気がします。それはさておき。
夫婦を描こうとすると卑近になるのは、脚本や演出に因るところが大きいのでしょうけど、それだけではない気がします。

中学生くらいになって洋楽、つまり英語詞の歌を聞き始めたときに、あることを感じました。歌謡曲ってのは日本語だろうが英語だろうが中国語だろうが、やっぱり恋や愛をうたうものが多いのですが、英語の歌詞でうたわれる愛=love が表わしているのが、男女の惚れたの、切ないのというよりは、「人類愛」みたいのに非常に近い感触があるように感じたんです。
もちろん、ごくふつうの男女が「あなたを愛してる」って歌だって多いのですが、その「愛」っていうのを敷延・拡大していけば、そのまま地球をすっぽり包むサイズになって、「we are the world」的なものへと直結しているように思います。

ひるがえって日本語詞で「キミが好き」、「あんたが好きよ」って言うのは、あくまで個人の情感であって、引き伸ばしたら国や地球を包むようなものにはならないんです。というより、引き伸ばすこと自体ができそうにない。その対象が「家族」でも、「ふるさと」でも、「民族同胞」でも、対象が大きくなったからと言ってその「愛」を引き伸ばして適用できない。
恋人への想いって、あくまでそこまでしか包括してないんじゃないかと。たとえばその恋人と結婚して子供がうまれて、「家族」って単位で愛するようになったときの「愛」は、恋人同士にあった「愛」を引き伸ばして適用範囲をひろげたものじゃない。もうその時点ですでに種類の違う「愛」ではないでしょうか。
でも、少なくとも英語の 「love」 の語感って言うのは、伸縮していろんなサイズに対応できそうな感じがあります。

秀吉とおねの夫婦関係を描こうとしたときに妙な違和感が発生しやすいのは、「戦国武将である秀吉」と「夫である秀吉」がシームレスになっていないからでしょうか。家庭人の秀吉を描けば、それは必然的に卑近になるんですよ、おそらく。もしかしたらこれは日本人に顕著と言われる、社会的な立場によって人格が変わる特性とも通じるものがあるかもしれません。

用FC2,寫部落格日誌也都簡單阿!

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