小説『下高井戸シネマ』 - ポエツ | poets

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【長い前書きのような後書きとしての能書き】
小説『下高井戸シネマ』について、少し長めの前書きのような後書きから入りたいと思います。
「小説はあとがき・解説から読まない」という主義の方でしたら、先にこちらを読まないことをお勧めします。
「こちらを読んでおもしろそうだったら小説も読んでみる」と言う方がいれば、言っておくとこの「前書きのような後書き」は本編より幾分かおもしろいと思いますので、本編の出来は推して知るべし。

この小説は以前紹介・訳詩をした楽曲、光良『童話』を起点としています。
この記事の投稿が10月の末です。小説自体はさほど長いものでなく、全体の構成も見えていたので、三分の二を越えるところまでは、半日で書いたはずです。
そのあと1カ月以上の断絶があったのは、最初の勢いを失ってしまったあとの、単なる怠惰、に過ぎません。

この1カ月以上の時間の中で、私は小さな大きな溝をまたぐことになりました。「小さな大きな」というのは誤字ではありません。アームストロング船長ならこういうかもしれません。「大概の人にとっちゃ小さな一歩だが、あなたにしちゃ大きな一歩かもね」
私はアームストロング船長のお顔を知らないので、クリストファー・リーヴの顔で代用しています。あ、クリストファー・リーではありません。ドラキュラでなくスーパーマンの俳優です。

傲慢を承知で言えば、ル・グウィンが「ゲド戦記」第三部と第四部の間に必要とした時間のようなものです。(私の場合それが1ヶ月半程度ってところが、なんともドメスティックなわけで…)

『童話』を小説化しようと思った最初の小さな動機は、この時間の中でいつのまにか溝を越えました。溝を越えなければ、私はまた未完の小説をひとつ増やすことになったでしょう。
執筆過程の前半と後半で、溝を越えたとは言っても、小説の筋書き・結末は(私の自覚する限り)、何も変わりはしませんでした。
いや、こんな前書きをしていると誤解されそうですが、『下高井戸シネマ』は私の心象小説とか私小説とかではまったくなく、ごくポップなドラマ(のはず)です。ゆえに筋書きや結末には影響しないのです。

じゃあなんで長い感慨を語っているかと言えば、短編とは言え、まさか小説を書き上げられるなんて考えてもなかったのです。
完成までたどり着けた最後の小説は、たしか大学卒業の直後に書いたものだったと記憶しています。

中学生の頃は作家になりたくて、夢妄想だけの世界を乱作していました。語彙も知識もなくて、あり余る想像力は筆から先へ伝わりませんでした。
高校生の頃はメタファだの、ガジェットだの、カタルシスだの、意味も理解してない用語を得意げに使うようになりました。大学の頃は文体に懲り始め、旧仮名遣いやら改行にこだわったりしました。知識や常識、技術を身に付けるごとに、想像力は失われて行きます。

別にこれは嘆きでも何でもなく、子どもの想像力なんてそういうものなのです。今でもあんな夢想をしていたとしたら、私はただの変態です。子どもの当時、私が何を想像していたかなんて、恥ずかしくてとても言うことはできません。
ただ、気づいた時には何を書いていいかわからなくなっていました。書きたいと言う気持ちはかろうじて残っていても。

「中島みゆき&ユーミンの歌詞比較論」から発展した歌詞『童話』の小説化ですが、ユーミンつながりで興味深い記事を見つけました(孫引きみたいになりますが)。
:: H & A :: blog「フォーマットとして求めない方がいい」
 

あややが“近い将来は自分で作詞というものをやっていきたい”といったのに対してユーミンが“そんなのやめた方がいい”とやたらに否定しています。
 「曲とか詞を書くっていうのは、もう生活、生理、いっしょだから、食事したり歩いたりすることと。言われる前から書いてるのよ、人が止めようと、勧めようが、勧めまいが。自分の欲求として、もう幼い頃から作っちゃっている。…(後略)


これを読んで、ああ、そうだと思い出しました。
小説『下高井戸シネマ』は何のことはない、私の生理として、書くべき時に書いただけようにも思います。宿命というより宿便です。当然クサイです。

いま自分で本編を読み返してみると、このセンチメンタルぶりは『なごり雪』(伊勢正三)を思わせますが(かなり近似かも…)、あくまで『童話』の歌詞から起したものです。
歌詞のキーポイントである〈あなたは泣きながら言う /おとぎ話なんてみんな作り事じゃない〉、の「おとぎ話」を「映画」に置き換えています。

気づいた点がもうひとつ。すっかりウェブ上で文章を書く・読むことに親しんでしまってましたが、やはり日本語は「縦書き」です。
「下高井戸シネマ」は「ヨコガキ文学」にはなじみません。よろしければMicrosoft Wordなどでひっくり返して(縦書で)読んでください。お手数ひとつで、この拙作も5%ほど読みやすくなること間違いなし! ただし段落は落としてませんし、半角数字は寝っ転がってしまいます。

simotaka_cinema.txt
[related]*作品 *ゼンザブロニカ

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Re: 小説『下高井戸シネマ』

■読了してくださった方へ■
拙作を読んでくださって、ただただ感謝です。

この小説にはちょっとした、ある仕掛けがあります。
仕掛けといってもトリックとか、謎とか、タテ読みとか、そういった隠されたものではありません。
リリカルな作品ですので、そう言う先入観を持って読むことはお勧めしません。
それに隠されてないので「探す」必要もありません。
人によって気づくか、感じるか、それだけです。

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批評ありがとうございます

感想・批評、ありがとうございます。
サイトいじりして4年ほどですが、いつか小説を公開したいと思いつつ、やっと達成でき、レスポンスまでいただけけたのは幸せです。

さて、「仕掛け」については、謎探しのように読んで欲しくなかったので、書こうかどうか迷いました。テクスト論的な読解も興味はありますが、ひと昔前のように行き過ぎたものは感心しません。
しかし、こうして「謎解きの解答」をもらえると、それなりに楽しくなってきている自分もいます。

まず、「隠されていない」と書いたように、本編の行間までひっくり返して見たところで、なにも書かれてはいません。書かれてはいないんです。
テクスト論的な、「作品(の解釈)」は作家のものか? 読者のものか? という論題と通底する部分はあるように思います。

非公開コメントからの引用になります。
>場面転換を故意に隠せる叙述トリック
これを読んで、あるギミックを思い出しました。

書評で見ただけで読んでいないのですが、こんな仕掛けの本があったと思います。
本編の真ん中の章が袋とじになっています。最初は袋とじを切らずに、前半・後半を袋とじの章を飛ばして読みます。それでも物語は成立します。
それから袋とじの章を開いて読みます。中央にその1章が挿入されると、後半部の意味がことごとく変わってしまうとか。

実読してないので何とも言えませんが、おもしろいけど文学的にはギミカル過ぎる気もします(読んだことある方いたら教えてください)。
でも「叙述トリック」であればずっとスマートです。

安直な例で言えば、物語がA・B二つの世界が交互に描かれていたとします(例:村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)
A→B→A→B→A→B→
と交互に場転するのですが、途中で場転したように見せかけます。
A→B→A→B→【B】→○→
【B】はAに場転したように錯覚させてBなんですが、そうするとその後の○以降をどう展開させるとおもしろいんでしょう…(思いつきですんで)

まあ、あまりギミカルにするよりは、文体も含めて素直に・リリカルに、を目指しています。『下高井戸シネマ』の仕掛けも凝ったものではありません。
そういうわけで、もう一方の推理「メタ・メタ構造」と言うのも違います。単純にメタにメタを重ねていく手法は比較的容易ですが、その分おもしろいメタ構造を造り出すのは容易ではないと思います。

用FC2,寫部落格日誌也都簡單阿!

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