識別子 - ポエツ | poets

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少し前の記事(「チョショク」)で、外国語の発音について書いたが、英語でもやっぱり同じようなことはある。
以前米国に滞在してた時のこと、電話料金を払いにいったのだけど、「telephone charges」の発音がどうしても通じない。「telephone がどうしたの?」と聞き返され、くりかえし「charges」を言うのだけど、うまく発音できない。いいかげんイヤになって最後には、いわゆるカタカナ発音と言うより(たぶんベタベタに母音を発音するってことだろう)、むしろもう日本語で「チャージ」と言ってみたら、すぐ通じて、苦笑いせざるを得なかった。
この種の経験はよくある気がするのだけど、たとえば巻き舌とか反り舌音とか、いくらかでも正確な発音に近づけているはずなのに、むしろそこから離れた発音が通じてしまうのはなぜだろう。それから、他の人が話す外国語を聴いていて、明らかに下手なのに、その人の発音のほうが現地人には通じやすかったりして、不思議に思う時がある。

ピンインで表記するところの中国語の k、g、は日本語ではそれぞれ「ク」、「グ」に聞こえるかもしれない。しかしこのふたつの音は、日本語の清濁で区別されているのではなく、有気音・無気音(あるいは送気)の違いだ。「k」の音は誇張して表記すれば「クフー」のように「ふー」と息が唇から出てなければならない。となると、聴き取りも同様にふたつの音は、清音か濁音かではなく、空気が出ているかどうかで判別されているはずである。
ネイティブスピーカーに聴き取ってもらうためには、「総体」として似ているかではなく、相手が「識別」に使っている部分が正確であればいい。

そういえば以前、電子楽器の開発者が書いていた記事にこんなことが書いてあった。シンセサイザなどに、ピアノからギター、ハープ、バイオリン、サックスまで様々な管弦楽器の音をプログラムしていく。でも各楽器の音に似せるのは、じつは「アタック」と言われる(だったと思う)音の出だしの部分だけで、後ろの伸びていく音の部分はほとんどの楽器は大差がない(たぶん一般の人の耳には区別しにくい)のだと言う。だから、その部分の音は使い回しができる。(基本的にはコンピュータだから、個別に作っていくと容量もかさむ)
「ジャーーン」が楽器の音とすれば、「これはピアノ」あるいは「バイオリンだ」、と多くの人が識別しているのは、出だしの「ジャ」の部分だけで、後半の「ーーン」ではない。

佐藤亜紀の『掠奪美術館』に書かれていた話だったと思う。希代の贋作者といわれたメーヘレンの手による、フェルメールの贋作は当時専門家すら鑑定が困難だったにもかかわらず、現在になってみてみると「そんなには似てない」らしい。私は実物を見ていないから、それについてはどうともいえないけど、これも興味深い話である。

仮に「フェルメールの作品」を表わす識別コードが「11111-22222」の十ケタだとする。メーヘレンの贋作が同様に「11111-22222」であれば誰にも見分けがつかない(*正確にはここまで完全に同じならば、それは「贋作」ではない。これはデジタルデータの問題に繋がってくるけど、それはまた別の話題)。
しかし前述の例にあるように、人間は実際に十ケタすべてのコードを認識しているわけではない。もし多くの人が「前の五ケタ」で対象を認識していれば
フェルメール「11111-22222」
メーヘレン「11111-99999」
このような場合でも二者の識別はできないことになる。これが時代の変遷とともに、人々が対象を識別するコードも変化して、「三ケタから七ケタ目」の部分になったとすれば
フェルメール「111-22」
メーヘレン「111-99」
二者は似ているけど、まあ見分けはつくよね、ってことになる。これは個人レベルでも日常的に発生していることで、15、6世紀のオランダ絵画は全部同じに見えるとか、浮世絵のタッチはみな同じ、と感じたとしても同様だ。
モノマネなんかもそうで、見る人によって似てる・似てない、の意見が割れるのも対象の識別に使っているコードの「部分」が違う(同一の対象であれば「総体コード」自体は変わらないはず)ということなんだろう。

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申し訳ないけれど私はblackやwhiteのひとの顔の区別があまりつかなくて、そしてそのblackやwhiteのひとの前では割合英語の発音はいいねと言われていた私のpenguinの発音はまったく通じないという衝撃の事実があって、そこはまぎれもない水族館で私はペンギンの居場所が知りたいのにpenguinとは似ても似つかぬものに聞こえているらしくて目の前のwhiteのおばさまは首をかしげて私のつたない発音を真似ていて、だんだん私はあきらめ加減になってそうだ筆談だそれなら通じると思いながらペンを探しても見つからず、そうこうしているうちに向こうがとてつもない想像力をはたらかせてくれてようやく私のpenguinが彼女の知っているpenguinと結びついたときには私にとっては結構な時間が経っていて、似ている似ていないおりじなるって何よみんな真似して大きくなったのよでもやっぱり違うわ大きな顔してパクっちゃいけないの「何か」がなくっちゃでもその「何か」って何。

「ブログはスクラップブック」か?

↑この改行なしの、一時期の村上龍みたいでかっこいいんで、修正しないでくださいねw

贋作とオリジナルというのは本記事の本旨とは、まったく関係ないんですけど、
sugar pot でも書かれているこの辺りの話題。
http://bittersweetdreams.blog9.fc2.com/blog-entry-578.html

いわゆる「パッチワーク」化(方々で集めてきた情報をつなぐ)で、ひとつのものを構成すると、
パーツパーツは全部拾い物なんですが、全体としてはオリジナルな〈テクスチャ〉になっている。
ウェブ上で〈テキスト〉データのコピペができるようになって、これは顕著になりました。

聴いたことあるかもしれませんが、私の好きな話がありまして、
戦前の日本がまだ貧しかった頃、ある農村の小学校に赴任した教師がいました。
そこで教師は天才的な数学の才能を持った生徒に出会う。
教師はなんとかして、生徒を中学校に進学させたいと思うのですが、
当時、一般家庭での進学率は低く、生徒の両親も同意せず、進学はできなかった。

それから十数年が過ぎたある日、教師のもとかつての生徒から手紙が届きます。
「先生のおかげで数学の楽しさを知ってから、今でもずっと農作業のあとに時間を見つけては問題を解いています。
今回お手紙を書いたのは、実は私はついに新しい発見をしたようなのです!」

教師はびっくりする。生徒が独力で発見した解法っていうのが、二次方程式だか連立方程式だかだったから。
もし生徒が進学していれば、そこで習うはずだったものを、生徒は自己研究で発見した。
生徒は間違いなく天才だったわけですが、この偉大な「オリジナル」な発見には何の価値もない。
もし生徒が数学の教育を受けて(「まねび」=「まなび」)、そこを踏み台にしていれば、
「本当の発見」をしたかもしれない、と教師は悔やんでも悔やみきれなかったとか。

で、この上記のような話も、私が体験したとか見聞きしたわけじゃなく、
本で読んだものをもっともらしく引っ張ってきてるだけなんですね。

みーんな真似して大きくなった

>一時期の村上龍

大江→村上ラインの句読点なしの文章にたいするオマージュでした、分かっていただけて嬉しい(笑)。

ちょうど2ちゃんねるのまとめブログについてもまとめ作業をどう見るかという話題があり、ユーザーフォーラムのまとめを一コンテンツにしているサイトでアフィリエイト置き始めた私は他人事でなく(笑)。

いろんな情報を紡ぐ、という作業にもコツがあり、誰がやっても同じというわけにはいかない。そこに価値を見出せるかどうかというのはひとにもよるわけですよね。記事にも書いたように、フルオジリナルなんてよっぽどの天才でもない限り無理、いや、この時代において、それはあり得ないほどに難しいことであり、だとしたら、ただの物真似に留まらず、換骨奪胎と呼ばれるくらいなものを目指したいと思うわけです。

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