賛否両論 - ポエツ | poets

Logs

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
少し前にサッカー世界盃にあまり興味がないと書いたけど、決してスノッブな意味で言っているんじゃないですよ。
それで、引退を表明した中田英寿の事実上最後の試合となった対ブラジル戦も映像は見ていません。引退のニュース映像で、試合後にフィールド上に横たわる姿を観たくらいです。あとはほとんどネット上で収集した情報です。
試合後長いこと倒れていたという中田の姿は、その間に彼の胸中には様々な感慨が去来していたのだろうなと、思わせてくれます。とりわけ引退を知った今となっては。

と思えば、「あのだらしなく寝そべっている様はみっともなかった」という意見もやはりありました。言わずもがな捉え方は人それぞれ、左右あって然るべきではあるけども、自分と反する考えをどう許容するかが難しんだろうなあ。
中田選手の話はともかく、昨日、作家の江藤淳についてちょっと調べていました。
江藤淳は1999年、最愛の妻の後を追うように自殺。「名文」と讚えられる遺書を残します。

心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。


「江藤淳 自殺」で検索した所、文学方面じゃなく「自殺問題」として取り扱ったサイトが結構ヒットします。

浄土真宗親鸞会「自殺を『とにかく生きよ』で止められるか」

 おかしなことに、マスコミには自殺を賛美する論調が目立った。
「奥さんの後を追って死んだんだね。とっても美しい」(石原慎太郎)
「奥さまへのいたわりや、やさしさも生涯、深く貫かれ、本当に後を追うように逝かれたのですね」(瀬戸内寂聴)
 妻の後を追って自殺するのが美しいのだろうか。
 老苦や病苦に襲われたら、みっともない姿をさらす前に自殺するのが賢明なのか。


上記は宗教団体のサイトなんで、宗教面で言えば教義として自殺を認めていない宗派がほとんどでしょう。また「社会問題」ってスキームに限って言えば、美化したり奨励したりすべきものじゃない。だけどそこで江藤淳の自死と直結しちゃうところに、私は朧げな違和感を感じてしまう。(江藤淳は「自殺」じゃなくて「自死」だって主張は、ここでは措く)
数年前の呉智英と宮崎哲弥の対談で、呉智英も自殺ってのはかっこ悪いし、認められないと述べながらも、円谷幸吉のような、人の心の中に何かを刻みつけていくような自殺は美しいと、確か言っていたように思う。
つまりは「自殺が美しい」ってことはなくて、「美しい自殺」もあるってことなんじゃないか。なんて、こう言ってしまうのも際どい奇弁で、「暴力は美しくない」けれど、ジダン選手の行為は誇りを賭けた「美しい暴力」だった、とか何にでも敷延もできちゃう。
それでも江藤淳の自殺は、人の心に美しいと思わせるものはあったと思う。もちろん、これはすでに社会問題としての自殺ってスキームではない。前述のサイト『浄土真宗親鸞会』のページに朝日新聞への投書(『江藤さんの決断』朝日新聞「こころ」のページ編)が引用されている。又引きになってしまうが

身体不自由になったことで、「生きる意味がない」と断じた江藤淳という人は、人生の意味をどこに見いだしていたのだろうか。(東京都・男性・80歳)


最初に引いた江藤淳の遺文をいま一度見れば、「形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる」というのはそういう意味じゃないだろう。もちろんその前の「病苦が堪え難し」だけにウェイトを持ってきてしまうと意味は変わってしまうけど、そういう文脈ではない。くりかえせば、自殺だから賛美する論調が多かったんではなく、それだけ多くから「賛美される自殺」だった。自殺すれば誰でも美しいわけじゃない(むしろ逆だろう)。

名言名句のウラ側は

作家・高井有一氏は、死の2ヵ月前、江藤氏の、こんな言葉を聞いている。
>夜はまだいい。周りが闇に閉ざされているから。昼は光が入って、家の隅々、庭まで見えてしまう。そこに、それまで居た人がいない。この空白感が耐え切れない。


気づいたら泣いていた、なんて安っぽいことは書きたくなかったのだけど、ふとこの文章が目に入ったとたん、しゅわしゅわと吹き出す炭酸水みたいに涙が溢れてきた。絶妙なタイミングで心の振動数があってしまったという感じ。江藤氏の魂と重なったような気がした。私の心の中に愛する人の顔がぽっと浮かんで、そしてその人のいなくなってできた、どうしようない空白を想起した。
だから私は「それでもなお生きよ」と江藤氏に言う気になれないし、同じように中田選手にも「そんなとこで寝そべるな」とは思えない。


賛否両論ついでにいうと、ジブリアニメ『ゲド戦記』の試写評がほうぼうに出てるけど、あいやこれ両論じゃなくてほとんど単論、ですね…。
Yahoo! ムービー「ゲド戦記」
手前のサイトですが、年初の記事(「七光との戦い」)で、宮崎親子の「世襲」について書きました。今になって思うと、これが”世襲”でなかったとしたら、宮崎駿は宮崎吾朗の作品の成功を願ってなかった部分があるでしょうね。たとえ同じ組織で利益を共有してたとしても、作家のエゴってそういうもの。私がその立場だったら、作品がコケたと聞けば心の片隅でニンマリしてると思います。
世襲の場合だったら自我が溶解しちゃって不可分になってくるので、親-子は延長線を形成するんでしょうけど。夏目漱石のあたりから言うところの、「日本人の近代的自我」ってのがどの程度作用してるかわかりませんが、作家としての”個”が屹立してると芸の継承は難しいだろう。でも前近代の歌舞伎役者だって、そういう意味の”個”はあったんじゃないかと思うけど。

あ、そんなわけで某作品、劇場で観るのは止めることにしました(へたれ)。

comment


  管理者にだけ表示を許可する

Re: サンプル

本来「試写」は「試食」同様に、顧客の声をフィードバックするための、あくまでサンプルのはず。
なぜか日本映画の試写は完成品で、基本的に作り直しができない段階。
これはシステム的な問題。

trackback

用FC2,寫部落格日誌也都簡單阿!

検索語抽出

ポップアップ・コメント

poets designed

Ajax検索
AD

台湾留学 完全サポート

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。