世界の中に自分がいる、自分の外に世界がある - ポエツ | poets

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胃腸が弱くて貧血ぎみなんで、もとより健啖じゃないんですが、臥せったことはあまりありません。しかしこの二日、高熱を出して寝込んでおりました。あらためて思ったのは、”健康的な病”と言えば語意矛盾してますが、胃もたれや目まいに較べると、発熱というのはじつにすがすがしいのだなあと感じました。
で、熱があると変な夢ばかり見るんですね。今回はグーグルやヤフーのクローラー? になる夢でした。って言ってもうまく表現できないんですが、自分は人間としてふつうにそこにいるんです。それで、いろいろなURLをシュレッダーみたいな機械にほうりこむと、ガガガガッと細切れにしてくれて、インデックス付け完了… というわけ。ああ、グーグルやヤフーの中の人は、日夜こんなふうにURLを噛み砕いているのねと。

熱のせいなのか、先日のエントリ(参照)を書いた余韻だったのか、またとりとめのないことを考えてました。
「世界が認識している自分」と「自分が認識している世界」の関係みたいなことでしょうか。あるいは「世界が認識しているそれ」と「自分が認識しているそれ」です。
もしかしたら「自分が認識している、それに対する世界の認識」かもしれません。
「自分とはなんぞや?」という野暮ったいことを言おうと思って、「自分ではないところが世界」なのか「世界ではないところが自分」と認識しているのかと図にしてみたけど、意味がなかった。どっちも同じような気がします。

少し前に同じ話をしたとき、友人は、それは「マーケティング」みたいなものかな、答えてくれました。
たしかに「こんなにすばらしい(つまらない)もの」が、どうしてこんなに「受け容れられてない(大受けしている)」のか、という謎が解けません。あるいはその答えを持っている人なんていないのかもしれませんが。これは商品にかぎらず、恋愛や人間関係をふくめてです。

「自分探し」なんて行為が「自分が認識している自分」を知ることだったら、あまり意味はないと思うのです。ましてや「自分が認識している世界が認識している自分」に考えが行き着いてしまったら「自分が認識している自分が認識している世界が認識している自分」とか…とどこまでもメタメタになっていくしかない。
「探すべき自分はありや」。禅の公案に「隻手の音」という有名なのがあります。「自分」と「世界」が接触すると様々な音が出ます。音を出しているのは「自分」の側でも、「世界」の側でもない。右手だけ見ても、左手だけでも答は見えて(聞こえて)来ない。

以前、小劇場の仕込みに行ったとき、舞台音響のかたが劇場内をくまなく歩き回りながら、手を鳴らしていました。たずねてみると、反響を調べているとのこと。劇場の形や壁の材質だけでなく、観客がどこにどれだけ座るかによって反響が変ってきてしまうので、音量やスピーカーの位置に一定の正解があるわけではないそうです。スピーカーはさすがに吊り直しが聞きませんが、音量はその日によって(観客の数や湿度などの諸条件で)調整しているとのこと。
「スピーカーから発せられている音が”聴こえてる音”ではなくて、反響している音が”聴こえてる音”だからね」
音響さんはそう言っていました。

人間の目では「光」も視ることはできず、可視なのは「光の反射」なわけです。
たとえばブログの記事にしても、反響(反応)があってこそ。
「誰もわたしの名前を忘れてしまったら、わたしは消えてしまうの」と言う妖精がなんかのファンタジーに出てきましたが、存在を認識されていないことと、存在しないことはほとんど同義です。たとえグーグルやヤフーの検索にインデックスされていたとしても。

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