秀吉レノン & おねヨーコ - ポエツ | poets

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秀吉とおねの夫婦像を大河ドラマで描いたら、どうして「団地妻とサラリーマン」的な卑近さになってしまうのか? という問題の続きです。
そういえば「団地」なんてことば、最近は聞かなくなった気がします。それはさておき。
夫婦を描こうとすると卑近になるのは、脚本や演出に因るところが大きいのでしょうけど、それだけではない気がします。

中学生くらいになって洋楽、つまり英語詞の歌を聞き始めたときに、あることを感じました。歌謡曲ってのは日本語だろうが英語だろうが中国語だろうが、やっぱり恋や愛をうたうものが多いのですが、英語の歌詞でうたわれる愛=love が表わしているのが、男女の惚れたの、切ないのというよりは、「人類愛」みたいのに非常に近い感触があるように感じたんです。
もちろん、ごくふつうの男女が「あなたを愛してる」って歌だって多いのですが、その「愛」っていうのを敷延・拡大していけば、そのまま地球をすっぽり包むサイズになって、「we are the world」的なものへと直結しているように思います。

ひるがえって日本語詞で「キミが好き」、「あんたが好きよ」って言うのは、あくまで個人の情感であって、引き伸ばしたら国や地球を包むようなものにはならないんです。というより、引き伸ばすこと自体ができそうにない。その対象が「家族」でも、「ふるさと」でも、「民族同胞」でも、対象が大きくなったからと言ってその「愛」を引き伸ばして適用できない。
恋人への想いって、あくまでそこまでしか包括してないんじゃないかと。たとえばその恋人と結婚して子供がうまれて、「家族」って単位で愛するようになったときの「愛」は、恋人同士にあった「愛」を引き伸ばして適用範囲をひろげたものじゃない。もうその時点ですでに種類の違う「愛」ではないでしょうか。
でも、少なくとも英語の 「love」 の語感って言うのは、伸縮していろんなサイズに対応できそうな感じがあります。

秀吉とおねの夫婦関係を描こうとしたときに妙な違和感が発生しやすいのは、「戦国武将である秀吉」と「夫である秀吉」がシームレスになっていないからでしょうか。家庭人の秀吉を描けば、それは必然的に卑近になるんですよ、おそらく。もしかしたらこれは日本人に顕著と言われる、社会的な立場によって人格が変わる特性とも通じるものがあるかもしれません。

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