a streetcar named ”design” - ポエツ | poets

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■欲望と言う名のデザイン
私は何かをデザインしたいと言う気持ちは、支配欲・征服欲と同源じゃないかと考えています。以前の記事でも書いたのですが、織田信長や毛沢東も、「世界」を設計(デザイン)してやろうとしていたのだと言えます。

ちょっと論旨はズレますが、多くの人は観光などの際に写真を撮るのが好きです。風景と言うのは眺めて、記憶に留めるしかないのですが、「写真」と言う形で物質化することによって「所有」を可能にしています。これも世界を所有したい欲望に適っているのでしょう。
私が(実は誰しもですが)写真を撮るときは、被写体を自分が見えているように、見たいように写すわけです(そうならないのは技術の不足です)。なので決して「真ヲ写ス」ではありません。

■デザインするは我にあり
私は未見なのですが『マイ・フェア・レディ』と言う有名な映画がありますね。あれも一人の女性をデザインしようとする男の物語ですか。(←ああ、「デザイン」を「プロデュース」に置き換えると「つんく」になるんだ…)
『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショウの戯曲『ピグマリオン』ですが、私はピグマリオンの神話も大好きです。ギリシャ神話でしたっけ? 原典に近いものを読んでないんで異同はあると思いますが、多少の私の曲解込みでだいたい以下のような話です。

ピグマリオンと言う男は、真に美しい女性を求めているのですが、現実にいる女性と言うものは決して「理想的」な存在ではありません。失望したピグマリオンは、ならば自らの手で理想の女性を造り出そうと、石の彫像を製作します。まさにデザインするは我にあり、です。
そうして彼は理想の女性像を造り出し、現実世界にはここまで真の美しさを持つ女はいないだろうと確信します。それを見た神が(彼の造った彫像の完成度を賞讃したからでしょうか)、その理想の石像を、肉体を持った女性に変身させます。で、ピグマリオンは夢に描いた理想の女性と添い遂げるんじゃなかったかしら。まあ、終いはどうでもいいです。

男女の位置は置換可能ですので、女性蔑視的な悪意はないと思います(映画『マイ・フェア・レディ』にはありそうな気がしますが)。

■支配したい対象
デザインで支配したいものというのは、2つの方向があります。
ひとつはまず、それが自分の思い通りのカタチをしていないから、意に沿うように作り変えることです。
もうひとつは、自分がデザインしたものを他者が見た時(使った時)に、「美しい」と思わせたいとか、びっくりさせたいとか、相手の感覚・印象を意のままにコントロールしようとすることです。「視線の誘導」などは後者に属するものでしょう。

このふたつは内向きと外向きとベクトルは違えど、基点は同一です。
デザインする者にとって、「自分はすごく美しいと思うのに、百人に感想を尋ねたら皆、美しくないと言われた」場合はどうでしょう? 「自己満足」とは言いますが、多くの場合「他者の評価(他者も満足させた)」もそこに含まれるものです。あるいは自分の価値観が、共通認識として他者に通用するか、という意味もあります。
あるいは、「こういう大きさ、色形にすれば、確実に目立つし、誰にでも使いやすい」形状があったとして、それが自分としてどうにも美しいと感じられない場合、やっぱり自分の感性に折り合うかたちに、何とかアレンジしようとするもんです。
そう言った意味で、この内・外のベクトルは微妙な綱引きの関係にあるのではないでしょうか。

■Designin' the world !!
英単語を使っていると、私なんか解ったような気になってしまってイクナイな、と感じますが、「デザイン」と「ルール」は密接な関係にあります。
ルールと言うのは「その世界を支配している法則や規律」のことです。つまりその世界、局面でのみ通じることとも言えます。

福田和也氏の著書などで読んだのですが、日本人は「ルールに適応すること、ルールの範囲内で何ができるかを考えること」に長けている反面、「ルールそのものを構築する、作り変えること」は不得意と言われています。私自身の感覚で言うと、条件がある時点でまずその枠内で考えてみますから、思考の範囲が内側に留まり気味になります。
逆にアングロサクソンはじめ、世界にはルールの構築を得意とする民族もいます。国際スポーツでも、経済でも日本はたびたびこれに悩まされているから、よく解ると思います。それでも勝手に変えられたルールに、なんとか適応してしまおうとする民族性は嫌いではありません。

ルールを持ち込んだものが強いのは当たり前です。そのルールの運用も熟知してますし、それ以上にルールを必要に応じて改変するイニシアチブも握ってますから。市場も似たことが言えると思います。
数年前、私がはじめてMacを購入した頃、「クロックアップ戦争」なるものが勃発しておりました。クロック周波数はコンピュータの処理速度を表わす数値のひとつです。当時PCが「ギガヘルツ」を超えつつあるなか、Macは500メガヘルツあたりをうろうろしていました(ちなみ私が昨年まで使っていたマシンは350MHz)。

私は機械としてのコンピュータの知識は皆無です、が確実に断言できることがあります。
1ギガヘルツのマシンは、500メガヘルツの2倍早いか? そんなことはありません。では1.5倍? いいえ。ヘタすると1.25倍も差が出ないかもしれません。マシンの性能はクロック数値だけで決まるものではないからです。
それは専門家じゃない私でも、パソコン雑誌のベンチマークテストを見りゃ何となくわかります。
にも関わらず当時の市場はクロックアップ・マンセー! だったのです。それがそのとき市場を支配していた「ルール」だったからです(自然発生したものではないでしょう)。その後のデジタルカメラ市場の「画素数戦争」にも同様のことが言えます。

福田和也氏いわく、PCのOSの設計と言うのは、言わばひとつの世界観をまるごと構築することだと。だから日本人にはあまり向いていないのだけど、一定の世界の中でどう遊ぶかには長けているので、おもしろいソフトを開発したりするんだとか。日本民族の指向性は、よりミクロコスモスなものへと向くのでしょう。
たしかに「インターネット」なんかは日本人に構築できなさそうですが、ネット上のコンテンツを充実させることは得意そうです。
それでも日本人でOSを開発している人はいますし、独特の「世界観」を持っている民族ですから、その世界観が反映されたOSがあったらどんなものか興味深いです。

[related]*論評
[参照]欲望という名の電車 Streetcar Named Desire

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