漢語2.0 の哲学 - ポエツ | poets

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だいぶ以前に米国に滞在していたとき、私の英会話のチューターは、ショーンという二、三年上の大学生だった。彼の専攻は日本語で、その翌年に東京へ交換留学すると言ってたけど、彼が日本語を話すのを聞くことほとんどはなかった。ショーンの愛用している最高のテキストはといえば、鳥山明のコミック『ドラゴンボール』だった。もっとも彼に限ったことでなく、日本のマンガ、アニメを日本語学習に使っている外国人はかなり多いだろう。

ともかく、『ドラゴンボール』には「魔人ブウ」という敵キャラクターが登場するのだけど、あるときショーンはこんなことを言ってた。
「”ブウ”という音は日本語ではブタに関連しますよね。ブタの鳴き声を表わしたり、太っている人物を”ブーちゃん”と呼んだりする。ちょっと間抜けでコミカルな語感があるでしょ。
でも”魔人ブウ”っていうのは凶悪なキャラクターなんです。”魔人”という恐ろしいイメージと、”ブウ”っていう語感の組み合せによる、落差・対比を考えたネーミングですよね」
ショーンの分析は的を得ていて、よく勉強しているものだと舌を巻いたし、ただ日本語ネイティブだとそこまで客観して分析できない(しない)だろうなと言うのも含めて、本当に感心した。

「漢字」は現代日本人にとって、外語と位置づけるかどうかはビミョーなものがある。
漢字の本家・中国と、その周辺には一大漢語圏が形成されていたのだけど、古くはベトナム、近年では韓国が表記を独自の文字に切り換えている。でも、たとえばベトナムの「ホーチミン」は、漢字表記は「胡志明(hu zhi ming)」、日本語の音読なら「こしみん」とも読めて、グローバルな媒介を考えると、表記(あるいは表音)には漢字を利用したほうが理解の手助けになる。
ちょっと有名なトリビア。日本の通貨単位は「円」で、正字表記は「圓」、中国(台湾)は「元(yuan)」だけど、実は正しくは「圓(yuan)」で、同音の宛て字。韓国の「ウォン」も漢字表記では「圓」。実は極東地域の通貨単位はぜんぶ「エン」なんだよ、なんてのは漢字を宛ててみないと気づかない。

少し前、語学学校の授業で、インドネシア華僑の生徒が「漢字(中国字)」をテーマにスピーチをしたことがあった。「”嫁”ぐ、という字は”ある家に女性が来る”ことを表わしています」というような部首分解と解説を、10文字ほど例を挙げてやっていた。けして皮肉じゃないのだけど、彼はとても得意げにこのテーマを話していて、おそらくこの部首のコンセプトを「発見」したときに驚きというか、ある種の新鮮感、きっとスコン!と腑に落ちるものがあったのだろうと思う。
彼のスピーチのテーマは教官にはかなり好評だった。自国の文字を外国人がそういうレベルで理解しようとするのが嬉しい、というのは解るのだけど、日本人としては所在に困るというか、「部首分解」とかは小学生の時分にとっく通過してしまっているので(参照「櫻は乱れ、戀に騒ぐ」)、そのネタがそこまで好評価というのに釈然としなかったりする。

独断で言うと、漢字については、日本人の基礎漢字レベルと、中高の漢文の素養があれば、漢字の本家の人とも互角に渡り合える。もっとも近年、高校じゃ漢文はカリキュラムにないかもしれない。
ただし中国語の授業で、教師の漢字の解釈が、自分の漢文知識と違うことがあっても、教師に指摘したりしないほうがいいだろう。むこうは漢字の本家さんなので、ガイジンに諭されるのが愉快でない場合があることぐらい慮ってもいい(と、度々教師に睨まれた私が言う罠)。

どっかの中国語教材の序文で、ある一冊には「日本語と共通する部分があると思って学習するとつまづきます。あくまで外国語だと注意したほうがいい」とあり、また別の一冊には「同じ漢字を使っているのでなじみやすい語句表現が多く、日本人には学びやすい言語」とあって、まあコレは主観というか、ものごとへのアプローチの違いでしかない。それでもあえてどちらかと言えば、私にとっては後者である。
同じ文字でもさすがに外国語なので、「用法が違う」とか「適用範囲が違う」ことはある。たとえば分かりやすい例は「出産」と「生産」。「出産」は中国語では「プロダクト、農産品や工業製品を作る」意味で、「生産」は「子供を産む」意味に使われる。日本語と用法は逆になる。でも、ここまで違うのはごく一部で、むしろ大部分は意外に近似しているといっていい。

このへんは明治時代に西周(にしあまね)や福沢諭吉あたりが、漢語を近代概念にシフトさせた成果がかなり色濃く残っているのだと思う。ただ西周の業績が外国人(特に中国人)にどれだけ周知かといえば、かなり心許ない。〈漢語学〉は〈中国語〉の学習に直接は関係ないかもしれない。けど、語句の成り立ちと解釈という点で、西周が漢語をどれだけモダナイズしたかというのを、漢字の母国が意識してないのは非常にややこしい。
西周が為しえたモダニゼーションは、今風に呼べば「漢語2.0」である。ただ一部のヘンな国粋主義者がエバって主張するような、日本人が漢語の近代化をして、中国はそれを逆輸入したから、という部分で優劣を評価するのは倒錯している。西周にしても、徹底的に漢籍の古典に用例の根拠を置いているわけで。じゃあやっぱり漢籍がドグマかっていうと、たとえば元号「昭和」や「平成」にも原典は《あるにはあるけど》ぐらいの薄い根拠でしかない。どちらにしても優劣の問題じゃないんだけど。
また「手續」などは、辞書によっては「日本語の”手続き”に由来」(もちろん意味は同じ)と明記されていて、時代的にはずっと新しく近年伝播したものらしい。おもしろいのは「てつづき」と言う日本語は漢字を当ててこそいるけども、語感としてはかなり「やまとことば」に近い。このへんは西周とはまったくフェーズが違って、それはそれで興味深い。

西周が「philosophy」の訳語を確立するまでの変遷は比較的有名な話。ラテン語の「知を求める、愛する(フィロ・ソフィア)」という語源から、訳語には「愛知学」「希賢学」「希哲学」…等々の試案が出される。しかしながら最終的に「哲学」に落ち着いたのは意図から言えば不可解ではある。「哲」の1文字では「フィロ・ソフィア」の語義に対応していないのだから。そして、「philosophy」の現代中国語訳はいうまでもなく「哲学」なのである。

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